外国人、2. イギリスは王位の女系継承を認めているくせに、貴族の爵位は女系継承を認めず絶家させてるケースかが多い。 46: 2020/07/25(土) 23:19:48.26 0 >>42 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 貴族院[イギリス]の用語解説 - 貴族を中心とする議員によって構成される議院。イギリス上院の正式名称。歴史的に議会は貴族の会議に始まり,イギリスの場合,下院(庶民院)が 17世紀に始まるのに対し,13世紀までさかのぼることができる。 221 英国ブレア政権下の貴族院改革 第二院の構成と機能 田 中 嘉 彦※ Ⅰ 序論 Ⅱ これまでの貴族院改革 Ⅲ ブレア政権下の貴族院改革の経緯と実績 Ⅳ 英国における第二院の構成原理と機能の在り方 Ⅴ ブレア改革による貴族院の構成と機能の変化 貴族院 (イギリス) 貴族院 (きぞくいん、 英語 : House of Lords )は、 イギリスの議会 を構成する 議院 のひとつで、 上院 に相当する。 中世 にイングランド議会から 庶民院 が分離したことで成立した。 貴族 によって構成される本院は、公選制の庶民院と異なり、非公選制であり、 終身任期 である。. 大逆罪に問われた者のうち刑の執行か恩赦を受けていない者、4. イギリス貴族院の違憲判決をめぐって―― 野尋之 43(43) 1 本稿の目的 テロ対策における安全保障と人権 イギリス反テロ法の展開と本稿の課題 2 2001年反テロ法における無期限拘禁処分 無期限拘禁処分の決定 不服申立 欧州人権条約 ところが、イギリスの「貴族院」とは、その名の通り爵位を持った「貴族」 集団により構成されています。 この「貴族院」とは名誉職的な存在ではなくれっきとした権力機関です。 イギリスという国は先進国でありながら、なぜこんな時代遅れ 外国人、2. 貴族院が誕生したのは 貴族院(きぞくいん)は大日本帝国憲法(明治憲法)が西暦1889年(明治22年)に制定された後の1890年から開かれることとなりました。衆議院が開かれた年も1890年となります。 アメリカのお金持ちってどんな人?対してイギリスのお金持ちは、貴族制度により先祖代々からの遺産(土地)で裕福に暮らす人々が多いのです。世界を動かす力を持つ両国の富裕層の人々とはどんは人たちなのか?両国のビリオネアの系統を分類し、比較すると面白い結果に! 不行跡で破産した者(不運で破産した者は問題にされない)、5. 二十一歳以下、3. 昔の議会の外観 今回は日本で最初に作られた議会「帝国議会ていこくぎかい」についてわかりやすく丁寧に解説していきます。 この記事を読んで分かること そもそも帝国議会のしくみは?なぜ貴族院と衆議院があるの?その違いは? 大逆罪に問われた者のうち刑の執行か恩赦を受けていない者、4. >イギリスという国は先進国でありながら、なぜこんな時代遅れ的な政治システムが現代でも存続しているんでしょうか? 結構、便利な制度なんですよ貴族院って…。 何故かと言いますと、貴族院の議員の殆どは一代貴族で、首相が英国国王へ推挙する事で成立しています。 議会法 制定以降は立法機関としての権能は庶民院に劣後する。. 二十一歳以下、3. 中世 にイングランド議会から 庶民院 が分離したことで成立。. ところが、イギリスの「貴族院」とは、その名の通り爵位を持った「貴族」 集団により構成されています。 この「貴族院」とは名誉職的な存在ではなくれっきとした権力機関です。 イギリスという国は先進国でありながら、なぜこんな時代遅れ 今日は念願の帝国議会、その中でも貴族院にスポットを当ててみていこう。 帝国議会ってのは最高立法機関でもって、衆議院と貴族院の二院制だったんだよ。ロエスレルさんの意見が取り入れられまして・・・イギリスとドイツ・プロイセンのいいとこどりって感じかな。 イギリスの階級制度は古くからあり、それが少しずつ形を変えたものが今だに残っています。それについて細かいことまで説明しようとすると、一冊の本になるほどなので、ここでは大まかに説明します。 階級についてはもともとは王族、貴族といった正式な爵位がある人達をトップとする身分で分かれていましたが、今は社会的地位や職業や収入と言った面も考慮に入っているのでその境は曖昧だったりもします。 そこを頭に入 … 沢山の留学先選択肢のある中、留学先をどこにしようか迷っている方も多いと思います。どのような点が留学先決めてのポイントになるでしょうか。今回、私がイギリス大学院に留学した際の理由を10つ紹介したいと思います。 不行跡で破産した者(不運で破産した者は問題にされない)、5. イギリスの議会は貴族から国王が任命する貴族院(上院)と庶民が小選挙区によって選ぶ庶民院(下院)の2つからなっていります。 下院は国民による選挙で選ばれた任期5年の議員で構成され … 国会議員には給料の他にも「文書通信交通滞在費」という名目で、交通費、通信費、滞在費などが目的の手当てが支給されます。 これらは月額100万円が非課税で支給され、報告や公開の義務もありません。 他にも立法事務費が月65万円(非課税)、議会雑費などが支払われます。 このような手当を含め … 貴族院(きぞくいん、英語: House of Lords)は、イギリスの議会を構成する議院で、上院に相当する。, 中世にイングランド議会から庶民院が分離したことで成立。貴族によって構成される本院は、公選制の庶民院と異なり、非公選制であり、終身任期である。議会法制定以降は立法機関としての権能は庶民院に劣後する。1999年以降は世襲貴族の議席が制限されており、一代貴族が議員の大半を占めている。かつては最高裁判所としての権能も有していたが、2009年に連合王国最高裁判所が新設されたことでその権能は喪失した。, イギリスの統治機関の多くは1066年のノルマン・コンクエスト後に創設されたイングランド王の封建的臣下である直属受封者(English版)(貴族)によって構成される国王諮問機関キュリア・レジス(国王裁判所の意[注釈 1])から分化したものである[3][4]。イギリスの議会であるパーラメント(Parliament of England)もその一つである。ジョン王が1215年に発布したマグナ・カルタ12条は国王はキュリア・レジスの大会議である全般諮問会議(commune consilium、パーラメントはこれの特定の会合として発足)の同意なく、課税してはならない旨を定めている[5]。, パーラメントも初期には直属受封者のみで構成されていたが[5]、12世紀から13世紀にかけて陪審員制度の確立(代議制への萌芽)、地方自治体の発展に伴う封建勢力の後退、騎士や市民などの中流階級の勃興、国王と貴族の対立などが起こり[6]、そのような背景から13世紀にイングランド王はパーラメントに州や都市の代表を加えるようになった。これによってパーラメントは代議制議会の性格を有するようになった[7]。, パーラメント(以降議会)が庶民院と貴族院に分離したのは、14世紀前期から中期頃と見られている。州代表の騎士と都市代表の市民が議会から分離して庶民院の実質を形成し、また下級聖職者が議会を去ったことで、議会残存部分(高位聖職者[注釈 2]、伯爵、男爵[注釈 3])が貴族院の実質を持つようになったのである[10][11]。14世紀末頃までには庶民院の構成はかなり明確となり、それに伴って貴族院も明瞭になっていった[12]。, フランス旧領地を回復する戦費調達のためにイングランド王は、円滑な税の徴収を欲しており、それには議会の了解を得ることが必要であった。そのため国王は議会への譲歩を進め、その譲歩の一つが制定法だった。14世紀末までには両院は立法協賛権を課税協賛権と同様に慣例として確立した[13][14]。, 両院の力関係でいえば、もともとは貴族院の方が圧倒的に強く、庶民院はその副次的存在として「請願者(Petitioners)」に過ぎなかった[15][16]。しかし封建貢納が金銭化などで形骸化すると庶民院は納税者集会の性格を強めていき、国王も無視することができない存在に成長した。ランカスター朝のヘンリー4世の時代の1407年には税の問題については庶民院で先議することが決定され[17][18]、続くヘンリー5世の時代の1414年には法制定権上の庶民院と貴族院の同格性が確認されている[19]。, 議会の中心母体の一つに高級裁判所パーラメントがあったので、議会は当初より司法機能を有したが、その機能は庶民院より貴族院の方が強かった。特に14世紀末に庶民院が弾劾権(国王の大臣を貴族院に告発する権利)を確立するに及んで、司法権は貴族院にあり、庶民院にないことが明確化した。以降貴族院は、庶民院に弾劾された貴族・庶民を裁判する権利、重罪で告発された貴族を裁判する権利、そして下級裁判所の判決を覆すことができる最高裁判所としての権能を有するようになった[20]。, 初期のイングランド議会における貴族とは、直属受封者のうち、国王から直接に議会召集令状(writ of summons)を出され、それによって貴族領と認定された所領を所有する者のことであった。しかし14世紀末頃から国王が勅許状で貴族称号を与えて新貴族創家を行うようになり、それ以降は貴族領の有無に関わりなく、貴族称号を持って議会に議席を有する者が貴族と看做されるようになった[21][22]。, 1502年の公式文書から、貴族院を構成する高位聖職者と爵位保有者を指して「聖職貴族(English版)及び世俗貴族(English版)(Lords Spiritual and Temporal)」と呼ぶようになった。また貴族院(House of Lords)という呼び方もこの頃から使用されるようになり、1510年から『貴族院日誌(House of Lords journals)』の印刷が開始されている[12][23]。, 15世紀中期の薔薇戦争は、封建貴族を没落させ、新興中産階級を台頭させた。テューダー朝期には貴族は「王室の藩屏」と化し、独立性を失った。一方新興中産階級は次々と庶民院に出てきてテューダー朝の王権と協力関係を築き、教会を追い落とすことを狙って宗教改革を推進した[24]。この宗教改革で聖職貴族も発言力を低下させ、貴族院の力は低下した[25]。このような状況からテューダー朝期の議会は「従順議会(Docile Parliament)」とも呼ばれるが、議会が中世から獲得してきた諸権利が失われたわけではなく、庶民院の影響力はこの時期にどんどん増した[26]。, ステュアート朝期の17世紀前期までには庶民院はあらゆる王権(行政権)に介入するようになり、国王と庶民院の対立が深刻化した[27]。17世紀半ばにピューリタン革命が発生し、王政は廃されて共和政が樹立された。この際に「王室の藩屏」たる貴族院も廃止され、一院制になった[28][注釈 4]。1660年には王政復古があり、貴族院も復古したが、これは絶対王政の復古を意味するものではなく、国王は再び革命が起こらないよう腐心せざるを得なくなり、したがってますます議会に逆らうのが困難となっていった[30]。, 1689年の名誉革命によって権利章典が議会で制定された。これにより王権は大幅に制限され、議会権力の王権に対する優位が確立された[31]。これ以降、庶民院における信任を背景に政府が成立するという議院内閣制(政党内閣制)が発展していく[32]。そのため政治の実権は庶民院が掌握するところとなり、貴族院の影は薄くなっていった。庶民院から支持を得ているが、貴族院で多数を得ていないという政府は、しばしば国王大権の貴族創家で貴族院を抑え込むようになった[33][注釈 5]。, 1707年にイングランドとスコットランドが合同してグレートブリテン王国が成立すると、スコットランド貴族のうち互選された16人が貴族代表議員としてイギリス貴族院に議席を置くことになった。また1801年にアイルランドと合同した際にもアイルランド貴族のうち28人が貴族代表議員としてイギリス貴族院に議席を有することになった[35]。, 18世紀末頃から大量の叙爵が行われるようになり、貴族院議員数が急増した。その結果、貴族院はこれまでの「比較的少数の国王の世襲的助言者」という立場から「特権階級の既得権擁護機関」と化し始めた。19世紀から20世紀初頭にかけての貴族院は、保守党が政権にある時は協調し、自由党が政権に就くとその改革の妨害にあたることが多かった。その結果、自由党支持層に貴族院改革の機運が高まり、自由党政権期の1911年に議会法が制定された。これにより貴族院は財政法案に関する否決・修正権限を失い、またそれ以外の法案についても庶民院において3回可決された場合は否決しても無意味となった(庶民院の優越)[36]。ただしこの段階では貴族院は庶民院で通過された法案を2年も引き延ばすことが可能だった[37]。, なお20世紀以降は貴族院議員が首相になることは憲法慣習として避けられるようになった。最後の貴族院議員の首相は1902年7月まで首相を務めた第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルである[38][39]。ただしこの憲法慣習は組閣の大命を下す国王(女王)を拘束するものではなく、1963年10月には第14代ヒューム伯爵アレグザンダー・ダグラス=ヒュームが任命されている。この時にはヒューム自身が憲法慣習を守るためにただちに爵位を返上して補欠選挙に出馬し、庶民院議員へ鞍替えしている[39][注釈 6]。, 1945年に成立した労働党政権は、保守党が多数を占める貴族院が議会法に基づく停止的拒否権を行使することを懸念した。これに対して保守党貴族院院内総務(English版)クランボーン子爵(後の第5代ソールズベリー侯爵)ロバート・ガスコイン=セシルは、「庶民院総選挙で明確にマニフェスト(政権公約)として掲げられ、有権者の信任を得た法案について、貴族院は否決したり大幅修正してはならない」とするソールズベリー・ドクトリンを表明した[41][42]。, 1949年には議会法の改正があり、貴族院が庶民院で可決された法案の成立を引きのばせる期間はこれまでの2年から1年に短縮された[37]。, 1958年には保守党首相ハロルド・マクミランにより一代貴族法(English版)が制定され、男女問わず一代に限り貴族院議員に登用できるようになった。これにより貴族院の党派議席配分の変更や幅広い人材登用がやりやすくなった[43]。この後、労働党は世襲貴族の新設を行わない旨を宣言し、保守党もそれに倣うと見られていたが、1983年には保守党首相マーガレット・サッチャーが、その慣例を破ってウィリアム・ホワイトローを世襲貴族ホワイトロー子爵に推薦して話題となった[44]。, 貴族院の一代貴族の占める割合は増加の一途をたどり、貴族院改革前夜の1998年2月の時点では世襲貴族は貴族院の59%(759名)にまで減少していた(対する一代貴族は484名)[45]。, 1963年の貴族法(English版)で世襲貴族は世襲事由が生じた時から1年以内であれば自分1代についてのみ爵位を放棄し、平民になるという選択(=貴族院議員にならないので庶民院の選挙権・被選挙権を得る)ができるようになった。またそれまで貴族院議員になれなかった女性世襲貴族とスコットランド貴族も貴族院議員に列することになった[43]。, 1999年にはブレア政権によって貴族院法(English版)が制定され、世襲貴族の議席は92議席を残して削除された。以降の貴族院は一代貴族が中心となっている[46]。そのためこれ以降の貴族院は身分制議会というより任命制議会に近くなっている[47]。また世襲貴族の多くが去ったことで貴族院の半永久的な保守党多数状態は終わり、以降の貴族院の勢力図は保革伯仲化し、中立派(クロスベンチャー)が重要な存在となった(貴族院の中立性)[48]。中立派の一代貴族は退職公務員、学者、経済人、作家、労働組合幹部、芸術・科学の第一人者などから貴族院任命委員会(English版)が推薦して叙爵するのが一般的であるため、優れた専門性を有しているとされる(貴族院の専門性)[49]。, ブレア政権が2005年に制定した憲法改革法(English版)により2009年から連合王国最高裁判所(Supreme Court of the United Kingdom)が新設され、貴族院は中世以来保持してきた最高裁判所としての権能を失った[50]。, 2007年3月7日に議会で貴族院の構成に関する自由投票が行われ、庶民院では全員選挙制、および80%選挙・20%任命制の意見が可決されている(貴族院では全員任命制が可決される)[51]。2010年の庶民院総選挙でも保守党・労働党・自民党の主要三政党がいずれも貴族院改革に前向きな姿勢を示した。この選挙後に成立したキャメロン保守党・自民党連立政権は2012年6月に貴族院公選制導入の法案[注釈 7]を議会に提出したが、与党から多数の造反者が出たため、法案は撤回され、2015年に予定される総選挙後まで棚上げされることになった[52]。そのため2014年現在のところ、まだ公選制導入の改革は実施されていない。, 財政法案(Finance act)については庶民院が先議権を有する[53]。また議会法の規定に基づき、財政法案の中でも歳入・歳出のみに関する金銭法案(Money Bill)については貴族院は1か月の遅延権を有するのみで一切修正することができない[54][55]。非財政法案は庶民院・貴族院どちらから先議しても構わない[53]。法案が財政法案に当たるかどうか判断する権限は議会法の規定により庶民院議長にある[56]。論争的でない法案は貴族院で先議されることが多く、政府提出法案の約3分の1は貴族院で先議されている[57]。法案審議の方法は貴族院も庶民院も大きな差異はないが、庶民院で先議していた場合は貴族院での審議は比較的簡潔に行われる[58]。, 実際に法案を議会に提出する前に政府は法案骨子をグリーン・ペーパー(English版)として公開する。またそれに対する各方面からの意見を考慮ないし反論して政策意図を世に問うホワイト・ペーパー(白書)を公開する。イギリスでは法案を議会に提出した後に法案やその審議を批判することは議会侮辱に相当する可能性があるため、このように法案提出前に法案の詳細を公開することで国民やマスコミの批評を受け付ける。またこの段階から議会での討論も受けるので、国民・マスコミからの批評に政府がいかに答えるかが議会内での与野党討論・修正動議提出に影響を与える[59]。, このやりとりを経て法案は庶民院もしくは貴族院に提出される。貴族院では、大法官(2005年まで。以降は、貴族院議員が就任した場合で以下の役を兼務していない場合)・貴族院院内総務・名誉帯剣紳士隊長(English版)(貴族院与党院内幹事長)・女王警護ヨーマン隊長(English版)(貴族院与党院内副幹事長)・侍従たる議員(English版)(貴族院与党院内幹事)などに任命された与党貴族院議員たちが法案可決のための院内交渉に当たる[58]。, 貴族院は庶民院と同様に本会議中心主義(読会制)で運営されている。第一読会は形式的なやり取りだけで終わり、法案はただちに第二読会へ送付される。第二読会は法案の概要や目的について討議し、「第二読会を終了する」との動議が可決されると委員会へ送付される。委員会では法案の内容に応じて常任委員会、全院委員会、特別常任委員会のいずれかに送付され、そこで討議されて修正を受ける。貴族院では大抵の場合、全院委員会に送付されている(貴族院議員は登院者がそれほど多くないので全院委員会で行っても弊害が少ない)。なお全院委員会以外で修正された法案は本会議に報告され、本会議の再考慮を仰ぐ。委員会に出席しなかった議員に発言の機会を与えるためである(全院委員会の場合はこの段階は省略)。続いて第三読会にかけられる。庶民院における第三読会は形式的なものだが、貴族院ではここでも修正討論が行われる。「第三読会を終了する」との動議が可決されると法案はその院を通過する[60]。, ほとんどの場合、法案は庶民院においても貴族院においても修正を受ける。庶民院では政治的な観点での修正が主だが、貴族院では字句の整合性・法理的整合性の観点からの修正が主である。そのため貴族院での修正討論は細部にまでわたることが多い。貴族院は政治的な修正はほとんどしないので庶民院に送付されても賛成を得られるのが通常である。庶民院が貴族院の修正を否決した場合は庶民院は貴族院に否決理由を述べて再審議を要求するが、それでも両院が合意できなければ議会法に基づく処置がなされる[58]。ただし現実には議会法の定めが利用されることはほとんどなく、庶民院が貴族院の修正を否決して貴族院に戻した場合は、貴族院はそれに賛成して対決を避けるのが一般的である[61]。, 貴族院での表決方法には発声表決と分列表決が取られている。発声表決とは貴族院議長の呼びかけに対して議員たちが「Content(賛成)」「Not Content(反対)」と声を上げ、議長が声の大きい方を可決させる表決方法である。その議長判断に対して異議が出された場合は分列表決が行われる。これは賛否に応じて二列に分かれた議員たちが議場の左右に存在する賛成者用廊下と反対者用廊下を通過して別々の入口から再度貴族院議場に入場し、その際に計算係(tellers)が数を数えてその人数の大小で表決する方法である[62]。, 2009年まで保持された貴族院の上訴裁判権は、14世紀中に確立されたものである[63]。, 貴族院の上訴管轄権は古くはイングランド王国内の裁判所(とりわけ王座裁判所)の上訴に限られていたが、ウェールズやアイルランドの属領化でこれらの地域の裁判所の上訴案件も扱うようになり、さらに1707年のスコットランド統合でスコットランド高等法院からの上訴案件も扱うようになった(ただしスコットランド高等法院の上訴は民事のみだった)。アイルランドの上訴管轄権は、1783年に一時アイルランド貴族院へ移管されたものの、1800年のアイルランド統合で結局イギリス貴族院へ戻っている[64]。, 上訴裁判権は貴族院の一部ではなく、貴族院全体に属するのが原則であるが、1844年の判例以降、上訴案件を扱う時の貴族院の審議は法律に明るい貴族院議員のみで行う慣例ができた。しかしそうそう法律に明るい貴族院議員がいるわけではないので、1876年には上訴管轄権法(English版)が制定され、司法官僚が法服貴族(一代貴族)として貴族院議員に登用されるようになった[63]。, 1948年まで上訴案件の審議は、貴族院全体が上訴案件を裁くという形式を重んじて貴族院本会議場で行われていた。しかし戦時中に庶民院本会議場が空襲で焼失し、貴族院本会議場が庶民院の仮議場として使われるようになったのを機に上訴案件審議は委員会室で行われるようになり、1948年5月にはこれを常態化させる形で委員会室を使う事が定められた(「上訴委員会(Appellate Committee)」と呼ばれる)。1960年代には第二上訴委員会も設置され、同時並行で二案件を審議できるようになった。上訴委員会は通常5人の法服貴族(難しい問題では7人)で法廷を構成した。ただし上訴委員会で判決を下すことはできず、上訴委員会は報告を本会議に送り、本会議での採決によって判決が下された[64]。, しかし上院が最高裁判所機能を有するというのは、近代立憲主義の憲法原則とされる権力分立の観点からは問題視され、ヨーロッパ人権条約(第6条で「法律にもとづいて設置された裁判所において独立した公平な裁判を受ける権利が保障される」べきことを要請)をはじめとするEU法体系にも抵触する可能性が高かった。そのためトニー・ブレア政権は2005年に憲法改革法(English版)を制定。これに基づいて2009年10月1日をもって貴族院の最高裁判所権能は連合王国最高裁判所に移行することとなった[65]。, 慣習により現在のイギリス政府は庶民院の信任を背景に成立しているが、貴族院の信任を受ける必要はないと考えられている。20世紀を通じて労働党政権時も貴族院は常に保守党によって多数を握られていたし、1999年貴族院改革以降の貴族院はどこの党も多数派になっていないためである[66]。, また非公選制議会たる貴族院が問責動議を可決させるべきではないというのは貴族院内で広く認識されており、20世紀中に貴族院で問責動議が可決されたことはない[67]。同様に内閣不信任決議を行った事もない。1993年に貴族院から内閣不信任動議が出されたことはあるものの、可決に至っていない。万が一可決された場合どうなるかは分からない。貴族院の内閣不信任は首相に辞任を強制する力はないかもしれないが、1世紀以上可決された事例がないので不明である[68]。, 19世紀までさかのぼると1864年7月に庶民院・貴族院両方で行われた第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル内閣に対する不信任動議採決で、庶民院では否決、貴族院では可決という結果が出たが、パーマストン卿は庶民院の採決の方が重いとして総辞職を拒否した事例が存在する[69]。, 歴史的に貴族院は王権と対立することが少なかったので、貴族院議員には議員特権意識は薄いが、院の自律権と貴族固有の権利として以下のような特権を保持している[70]。, 貴族院議員は現在に至るまで無報酬である。対して庶民院議員は1911年以降報酬が出されている。貴族院議員や1911年以前の庶民院議員が無報酬であるのは彼らのほとんどが大地主あるいは企業経営者の一族であって、巨額の資産をもっているからである。20世紀以降台頭した労働党の議員はそうではない者が多く、労働組合からの政治献金で生計を立てていたが、労働組合の資金を政治献金に使うことを禁じる貴族院判決が出たことでそれが成り立たなくなり、代わりの救済措置として1911年から庶民院議員のみ報酬が出されるようになった。一方、貴族院議員は一代貴族であってもそれ以前の職業生活の中での蓄えと一般よりはるかに高い年金があるために無報酬でもやっていけるため、現在でも無報酬となっている[78]。, 聖職貴族以外の貴族院議員は原則として終身であり、辞職や除名といった制度はなく、特定の場合に議員資格を停止されるか「請暇の許可(leave of absence)」の申請ができるだけである[79]。, 貴族院議員は庶民院の選挙権および庶民院議員資格を有さない(貴族院議員ではない貴族・国教会聖職者は有する)[80]。, 貴族院議員たる地位を認められない事由として「1. 貴族院(きぞくいん、英語: House of Lords)は、イギリスの議会を構成する議院のひとつで、上院に相当する。, 中世にイングランド議会から庶民院が分離したことで成立した。貴族によって構成される本院は、庶民院と異なり非公選かつ聖職貴族を除��終身任期制である。議会法制定以降は、立法機関としての権能は庶民院に劣後する。1999年以降は世襲貴族の議席が制限されており、一代貴族が議員の大半を占めている。かつては最高裁判所としての権能も有していたが、2009年に連合王国最高裁判所が新設されたことでその権能は喪失した。, 1999年の貴族院改革以前には世襲貴族は原則として全員が貴族院に議席を有していた。そのため20世紀に爵位が乱発された際には議員数が1000人を超えたこともあった。貴族院は長年にわたって世襲貴族を中心にして構成されてきた(ただし欠席者が多かった)。1958年に一代貴族制度が導入された後も1999年に至るまで世襲貴族が貴族院の多数を占めていた。, しかし1999年のトニー・ブレア政権の貴族院改革によって、世襲貴族の議席は世襲貴族議員の互選で選ばれた90名(当時の貴族院の党派に応じて案分された75名と院内役職にあった15名)に紋章院総裁を世襲するノーフォーク公爵家と大侍従卿を世襲で主に担うチャムリー侯爵家を加えた92議席に限定され、ほとんどの世襲貴族が議席を失った。以降、貴族院に議席を持つ世襲貴族は「例外貴族(excepted peers)」と呼ばれている。, 世襲貴族議員の任期は終身である。世襲貴族の議席に定数が設けられている現在では、ある世襲貴族議員が死去すると、世襲貴族議員の互選で世襲貴族の中から新しい議員を選出することになっている。, かつては女性世襲貴族は貴族院議員になれなかったが、1963年貴族法で女性世襲貴族にも貴族院議員となる道が開かれた。また同法により世襲貴族は、爵位継承から一年以内であれば自分一代について爵位を放棄して平民になることが可能となった。これは貴族院議員たる貴族が庶民院の選挙権および庶民院議員資格を有さないことへの救済処置であった。ただし、貴族院議員でない貴族は、爵位を放棄せずとも庶民院議員選挙権および庶民院議員資格を有する。1999年の貴族院改革後は大半の世襲貴族が貴族院議員でなくなっており、彼らはこれに該当する(これ以前は「貴族院議員ではない貴族」に該当するのはアイルランド貴族だけだった)。貴族院改革後も世襲貴族が爵位一代放棄を行う権利は失われていないが、貴族院議員たる貴族(「例外貴族」)は爵位一代放棄を行うことができなくなった。, 世襲貴族は創設時に応じてイングランド貴族、スコットランド貴族、グレートブリテン貴族、連合王国貴族に分かれており、また公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、伯爵(Earl)、子爵(Viscount)、男爵(Baron)の5等級から成るが、貴族院での活動においてこれらの区別に重要性はない。, 世襲貴族創家の権限は現在でも女王大権に属するが、立憲主義の慣例に基づいて、首相の助言によるべきと考えられている。もっとも王族以外への世襲貴族創家は、1984年に元首相ハロルド・マクミランがストックトン伯爵に叙されたのを最後に途絶えており、現在では臣民が新規に世襲貴族に叙される可能性は低い。, 非民主性が最も強い上、かつ中立性や専門性を有しているわけでもないことから、貴族院改革論において擁護することが最も困難な存在になっている。, 一代貴族(Life Peer)の先例は古くは14世紀から見られるが、現在のイギリスの一代貴族制度は1958年の一代貴族法に基づくものである。一代貴族は爵位を世襲できないが、終身で貴族院議員となる。彼らには爵位の等級はなく、全員が男爵である。, 1999年の貴族院改革により、世襲貴族の議席は大幅に減り、一代貴族が大多数となった。これにより貴族院は「もっぱら先祖の活躍と地位のみに基づく」世襲貴族中心の議院から本人の実績や経験に基づく一代貴族が中心の議院へと転換された。, 一代貴族は、首相の助言に基づく女王の勅許状によって叙爵される。首相による人選は首相独自の判断による場合もあれば、政府から独立した貴族院任命委員会(英語版)の推薦に基づく場合もある。叙爵されるのは主に政界・官界・軍・司法界などで活躍した者であり、男女問わないが、叙爵に明確な基準があるわけではないため、首相の裁量権が大きくなりがちである。2014年現在のところ確立されている首相裁量権を制限する習律としては「政党政治的叙爵に際して首相は自らが所属する政党だけではなく、他の党の人間も叙爵しなければならない」ことと「クロスベンチャー議員(中立派議員 各分野の専門家が多い)の叙爵は首相の直接指名ではなく貴族院任命委員会の指名に依らなければならない」ことの2つがある。貴族院任命委員会は2000年に設立され、求人のような透明・厳格な過程でもって指名を公募し、また政党政治的指名に際してもその人物の「適格性」を評価する機能を持つ(ただしこの「適格性」評価はその人物が立派な人間であることを保証するためのものであり、議員資格に照らした適格性や任命数の統制などはこの機関では検討しない)。, 一代貴族の授爵は首相退任時(退任する首相が次の首相に叙爵候補リストを残す)と総選挙時(引退を表明した庶民院議員たちを叙する)に行われることが多い。2010年の政権交代時には退任するブラウン労働党政権が通例を大きく超える32名の叙爵リスト(多くは労働党系 後任のキャメロンはうち29名の叙爵を女王に助言した)を残したため、「前回総選挙で各党が獲得した得票率を反映させる」ことを連立政権プログラムに掲げるキャメロン保守党・自民党連立政権としては、バランスをとるために与党系も大量に叙爵せざるをえなくなり、結果キャメロンの首相就任から1年以内に117人も一代貴族に叙され、2011年4月には一代貴族総数が792人に達した。現行制度だとこうした首相の「授爵合戦」が行われた場合に一代貴族が急増することが懸念されており、首相の裁量権を抑制する改革の必要性も唱えられている。, イギリスでは中世から2009年まで貴族院が最高裁判所機能を有した。近代になると法曹の貴族院議員が必要との認識が高まり、1876年に上訴管轄権法が制定され、常任上訴貴族(法服貴族、Lords of Appeal in Ordinary)という一代貴族が置かれるようになった。一代貴族としてはこれが最初の制度である。略称で法服貴族(Law Lords)と呼ぶ。爵位は男爵である。法服貴族設置後はそれ以外の貴族院議員は貴族院の司法的機能に関与してはならないとの憲法慣習ができた。, この貴族は当初4人までとされていたが、その後、上訴管轄権法改正で徐々に増やされていき(1913年に6名、1929年に7名、1947年に9名)、1968年裁判法(英語版)で11名に増員され、さらに1994年の裁判官定数令(Maximum Number of Judges Order)で12名になった。12人のうち2人はスコットランド高等法院(英語版)出身者にするのが慣例だった。かつて裁判官は終身だったが、後に70歳の定年制が設けられた。しかし裁判官としての定年を迎えても一代貴族であることに変わりはないので貴族院議員としては終身である。, 2005年の憲法改革法により2009年から連合王国最高裁判所(Supreme Court of the United Kingdom)が新設され、貴族院から最高裁判所機能が失われたのに伴い、今後新たに常任上訴貴族が任命されることは無くなった。, 憲法改革法の規定により最初の最高裁判所裁判官12人は常任上訴貴族が横滑りすることになり、彼らはその間貴族院登院を停止されることになった。ただし常任上訴貴族が一代貴族であることは変わらないので、最高裁判所裁判官を辞すれば貴族院議員の地位が復活する。最高裁判所裁判官に転じた常任上訴貴族のうち2010年9月30日に最初に退任したニューディゲイトのサヴィル男爵マーク・サヴィル(英語版)は、停止されていた貴族院登院を回復され、以降も退任によって同様に回復された。, 国教会の高位聖職者であるカンタベリー大主教、ヨーク大主教(英語版)、ロンドン主教(英語版)、ダラム主教(英語版)、ウィンチェスター主教(英語版)の5人と、そのほかの教区主教のうち21名をあわせた計26名は聖職貴族(英語版)(Lords Spiritual)として貴族院に議席を保有する。なお、聖職貴族以外の貴族院議員(世襲貴族・一代貴族・常任上訴貴族)は聖職貴族に対して世俗貴族(Lords Temporal)と呼ばれる。, 高位聖職者5人以外の議席は、貴族院議員たる教区主教の死亡・退任によって先任順に次の教区主教が貴族院議員となる。ただし、2014年に女性の司教就任が認められると2015年聖職貴族(女性)法が制定され、2015年から10年間は女性主教が優先的に貴族院議員となることが定められた。, 聖職貴族の議席は聖職者個人ではなくその主教位によるため、彼らは主教に留まっている間のみ貴族院議員であり、主教を辞すと貴族院議員たる地位も失う。また、主教位が変わった時にはその都度貴族院に紹介されて宣誓することになる。例えばカンタベリー大主教ジャスティン・ウェルビーは、2012年にダラム主教として、2013年にカンタベリー大主教として、それぞれ貴族院に紹介され、宣誓している。主教には70歳の定年が設けられているので、それまでには辞職することになるが、カンタベリー大主教とヨーク大主教のみは大主教を退いた後に一代貴族に列するのが例となっている。, 聖職貴族は院内で一つに固まって独自会派を形成しているが、中立派(クロスベンチャー)と同様に特定の政策に対して党議拘束を行っていない。, 貴族院議員たる国教会聖職者は庶民院議員資格を有さないが、貴族院議員でない国教会聖職者は2001年から庶民院議員資格を有する。, 聖職貴族は世俗貴族(世襲貴族・一代貴族)が急増した近現代においては貴族院の少数勢力に過ぎないが、中世の頃には世襲貴族の数が少なかったために貴族院の半分以上を占めている時期もあった。たとえばヘンリー8世即位時(1509年)の貴族院は世襲貴族36人と聖職貴族48人で構成されていた。現行の26人という聖職貴族の議員数は1878年主教職法(Bishoprics Act 1878)の定めによる。, イギリスの統治機関の多くは1066年のノルマン・コンクエスト後に創設されたイングランド王の封建的臣下である直属受封者(英語版)(貴族)によって構成される国王諮問機関キュリア・レジス(国王裁判所の意)から分化したものである。イギリスの議会であるパーラメント(Parliament of England)もその一つである。ジョン王が1215年に発布したマグナ・カルタ12条は国王はキュリア・レジスの大会議である全般諮問会議(commune consilium、パーラメントはこれの特定の会合として発足)の同意なく、課税してはならない旨を定めている。, パーラメントも初期には直属受封者のみで構成されていたが、12世紀から13世紀にかけて陪審員制度の確立(代議制への萌芽)、地方自治体の発展に伴う封建勢力の後退、騎士や市民などの中流階級の勃興、国王と貴族の対立などが起こり、そのような背景から13世紀にイングランド王はパーラメントに州や都市の代表を加えるようになった。これによってパーラメントは代議制議会の性格を有するようになった。, パーラメント(以降議会)が庶民院と貴族院に分離したのは、14世紀前期から中期頃と見られている。州代表の騎士と都市代表の市民が議会から分離して庶民院の実質を形成し、また下級聖職者が議会を去ったことで、議会残存部分(高位聖職者、伯爵、男爵)が貴族院の実質を持つようになったのである。14世紀末頃までには庶民院の構成はかなり明確となり、それに伴って貴族院も明瞭になっていった。, フランス旧領地を回復する戦費調達のためにイングランド王は、円滑な税の徴収を欲しており、それには議会の了解を得ることが必要であった。そのため国王は議会への譲歩を進め、その譲歩の一つが制定法だった。14世紀末までには両院は立法協賛権を課税協賛権と同様に慣例として確立した。, 両院の力関係でいえば、もともとは貴族院の方が圧倒的に強く、庶民院はその副次的存在として「請願者(Petitioners)」に過ぎなかった。しかし封建貢納が金銭化などで形骸化すると庶民院は納税者集会の性格を強めていき、国王も無視することができない存在に成長した。ランカスター朝のヘンリー4世の時代の1407年には税の問題については庶民院で先議することが決定され、続くヘンリー5世の時代の1414年には法制定権上の庶民院と貴族院の同格性が確認されている。, 議会の中心母体の一つに高級裁判所パーラメントがあったので、議会は当初より司法機能を有したが、その機能は庶民院より貴族院の方が強かった。特に14世紀末に庶民院が弾劾権(国王の大臣を貴族院に告発する権利)を確立するに及んで、司法権は貴族院にあり、庶民院にないことが明確化した。以降貴族院は、庶民院に弾劾された貴族・庶民を裁判する権利、重罪で告発された貴族を裁判する権利、そして下級裁判所の判決を覆すことができる最高裁判所としての権能を有するようになった。, 初期のイングランド議会における貴族とは、直属受封者のうち、国王から直接に議会召集令状(writ of summons)を出され、それによって貴族領と認定された所領を所有する者のことであった。しかし14世紀末頃から国王が勅許状で貴族称号を与えて新貴族創家を行うようになり、それ以降は貴族領の有無に関わりなく、貴族称号を持って議会に議席を有する者が貴族と看做されるようになった。, 1502年の公式文書から、貴族院を構成する高位聖職者と爵位保有者を指して「聖職貴族(英語版)及び世俗貴族(Lords Spiritual and Temporal)」と呼ぶようになった。また貴族院(House of Lords)という呼び方もこの頃から使用されるようになり、1510年から『貴族院日誌(House of Lords journals)』の印刷が開始されている。, 15世紀中期の薔薇戦争は、封建貴族を没落させ、新興中産階級を台頭させた。テューダー朝期には貴族は「王室の藩屏」と化し、独立性を失った。一方新興中産階級は次々と庶民院に出てきてテューダー朝の王権と協力関係を築き、教会を追い落とすことを狙って宗教改革を推進した。この宗教改革で聖職貴族も発言力を低下させ、貴族院の力は低下した。この��うな状況からテューダー朝期の議会は「従順議会(Docile Parliament)」とも呼ばれるが、議会が中世から獲得してきた諸権利が失われたわけではなく、庶民院の影響力はこの時期にどんどん増した。, ステュアート朝期の17世紀前期までには庶民院はあらゆる王権(行政権)に介入するようになり、国王と庶民院の対立が深刻化した。17世紀半ばにピューリタン革命が発生し、王政は廃されて共和政が樹立された。この際に「王室の藩屏」たる貴族院も廃止され、一院制になった。1660年には王政復古があり、貴族院も復古したが、これは絶対王政の復古を意味するものではなく、国王は再び革命が起こらないよう腐心せざるを得なくなり、したがってますます議会に逆らうのが困難となっていった。, 1689年の名誉革命によって権利章典が議会で制定された。これにより王権は大幅に制限され、議会権力の王権に対する優位が確立された。これ以降、庶民院における信任を背景に政府が成立するという議院内閣制(政党内閣制)が発展していく。そのため政治の実権は庶民院が掌握するところとなり、貴族院の影は薄くなっていった。庶民院から支持を得ているが、貴族院で多数を得ていないという政府は、しばしば国王大権の貴族創家で貴族院を抑え込むようになった。, 1707年にイングランドとスコットランドが合同してグレートブリテン王国が成立すると、スコットランド貴族のうち互選された16人が貴族代表議員としてイギリス貴族院に議席を置くことになった。また1801年にアイルランドと合同した際にもアイルランド貴族のうち28人が貴族代表議員としてイギリス貴族院に議席を有することになった。, 18世紀末頃から大量の叙爵が行われるようになり、貴族院議員数が急増した。その結果、貴族院はこれまでの「比較的少数の国王の世襲的助言者」という立場から「特権階級の既得権擁護機関」と化し始めた。19世紀から20世紀初頭にかけての貴族院は、保守党が政権にある時は協調し、自由党が政権に就くとその改革の妨害にあたることが多かった。その結果、自由党支持層に貴族院改革の機運が高まり、自由党政権期の1911年に議会法が制定された。これにより貴族院は財政法案に関する否決・修正権限を失い、またそれ以外の法案についても庶民院において3回可決された場合は否決しても無意味となった(庶民院の優越)。ただしこの段階では貴族院は庶民院で通過された法案を2年も引き延ばすことが可能だった。, なお20世紀以降は貴族院議員が首相になることは憲法慣習として避けられるようになった。最後の貴族院議員の首相は1902年7月まで首相を務めた第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルである。ただしこの憲法慣習は組閣の大命を下す国王(女王)を拘束するものではなく、1963年10月には第14代ヒューム伯爵アレグザンダー・ダグラス=ヒュームが任命されている。この時にはヒューム自身が憲法慣習を守るためにただちに爵位を返上して補欠選挙に出馬し、庶民院議員へ鞍替えしている。, 1945年に成立した労働党政権は、保守党が多数を占める貴族院が議会法に基づく停止的拒否権を行使することを懸念した。これに対して保守党貴族院院内総務(英語版)クランボーン子爵(後の第5代ソールズベリー侯爵)ロバート・ガスコイン=セシルは、「庶民院総選挙で明確にマニフェスト(政権公約)として掲げられ、有権者の信任を得た法案について、貴族院は否決したり大幅修正してはならない」とするソールズベリー・ドクトリンを表明した。, 1949年には議会法の改正があり、貴族院が庶民院で可決された法案の成立を引きのばせる期間はこれまでの2年から1年に短縮された。, 1958年には保守党首相ハロルド・マクミランにより一代貴族法が制定され、男女問わず一代に限り貴族院議員に登用できるようになった。これにより貴族院の党派議席配分の変更や幅広い人材登用がやりやすくなった。この後、労働党は世襲貴族の新設を行わない旨を宣言し、保守党もそれに倣うと見られていたが、1983年には保守党首相マーガレット・サッチャーが、その慣例を破ってウィリアム・ホワイトローを世襲貴族ホワイトロー子爵に推薦して話題となった。, 貴族院の一代貴族の占める割合は増加の一途をたどり、貴族院改革前夜の1998年2月の時点では世襲貴族は貴族院の59%(759名)にまで減少していた(対する一代貴族は484名)。, 1963年の貴族法で世襲貴族は世襲事由が生じた時から1年以内であれば自分1代についてのみ爵位を放棄し、平民になるという選択(=貴族��議員にならないので庶民院の選挙権・被選挙権を得る)ができるようになった。また、それまで貴族院議員になれなかった女性世襲貴族とスコットランド貴族も貴族院議員に列することになった。, 1999年にはブレア政権によって貴族院法が制定され、世襲貴族の議席は92議席を残して削除された。以降の貴族院は一代貴族が中心となっている。そのためこれ以降の貴族院は身分制議会というより任命制議会に近くなっている。また世襲貴族の多くが去ったことで貴族院の半永久的な保守党多数状態は終わり、以降の貴族院の勢力図は保革伯仲化し、中立派(クロスベンチャー)が重要な存在となった(貴族院の中立性)。中立派の一代貴族は退職公務員、学者、経済人、作家、労働組合幹部、芸術・科学の第一人者などから貴族院任命委員会(英語版)が推薦して叙爵するのが一般的であるため、優れた専門性を有しているとされる(貴族院の専門性)。, ブレア政権が2005年に制定した憲法改革法により2009年から連合王国最高裁判所(Supreme Court of the United Kingdom)が新設され、貴族院は中世以来保持してきた最高裁判所としての権能を失った。, 2007年3月7日に議会で貴族院の構成に関する自由投票が行われ、庶民院では全員選挙制、および80%選挙・20%任命制の意見が可決されている(貴族院では全員任命制が可決される)。2010年の庶民院総選挙でも保守党・労働党・自民党の主要三政党がいずれも貴族院改革に前向きな姿勢を示した。この選挙後に成立したキャメロン保守党・自民党連立政権は2012年6月に貴族院公選制導入の法案を議会に提出したが、与党から多数の造反者が出たため、法案は撤回され、2015年に予定される総選挙後まで棚上げされることになった。そのため2014年現在のところ、まだ公選制導入の改革は実施されていない。, 財政法案(Finance act)については庶民院が先議権を有する。また議会法の規定に基づき、財政法案の中でも歳入・歳出のみに関する金銭法案(Money Bill)については貴族院は1か月の遅延権を有するのみで一切修正することができない。非財政法案は庶民院・貴族院どちらから先議しても構わない。法案が財政法案に当たるかどうか判断する権限は議会法の規定により庶民院議長にある。論争的でない法案は貴族院で先議されることが多く、政府提出法案の約3分の1は貴族院で先議されている。法案審議の方法は貴族院も庶民院も大きな差異はないが、庶民院で先議していた場合は貴族院での審議は比較的簡潔に行われる。, 実際に法案を議会に提出する前に政府は法案骨子をグリーン・ペーパー(英語版)として公開する。またそれに対する各方面からの意見を考慮ないし反論して政策意図を世に問うホワイト・ペーパー(白書)を公開する。イギリスでは法案を議会に提出した後に法案やその審議を批判することは議会侮辱に相当する可能性があるため、このように法案提出前に法案の詳細を公開することで国民やマスコミの批評を受け付ける。またこの段階から議会での討論も受けるので、国民・マスコミからの批評に政府がいかに答えるかが議会内での与野党討論・修正動議提出に影響を与える。, このやりとりを経て法案は庶民院もしくは貴族院に提出される。貴族院では、大法官(2005年まで。以降は、貴族院議員が就任した場合で以下の役を兼務していない場合)・貴族院院内総務・名誉帯剣紳士隊長(貴族院与党院内幹事長)・女王警護ヨーマン隊長(貴族院与党院内副幹事長)・侍従たる議員(英語版)(貴族院与党院内幹事)などに任命された与党貴族院議員たちが法案可決のための院内交渉に当たる。, 貴族院は庶民院と同様に本会議中心主義(読会制)で運営されている。第一読会は形式的なやり取りだけで終わり、法案はただちに第二読会へ送付される。第二読会は法案の概要や目的について討議し、「第二読会を終了する」との動議が可決されると委員会へ送付される。委員会では法案の内容に応じて常任委員会、全院委員会、特別常任委員会のいずれかに送付され、そこで討議されて修正を受ける。貴族院では大抵の場合、全院委員会に送付されている(貴族院議員は登院者がそれほど多くないので全院委員会で行っても弊害が少ない)。なお全院委員会以外で修正された法案は本会議に報告され、本会議の再考慮を仰ぐ。委員会に出席しなかった議員に発言の機会を与えるためである(全院委員会の場合はこの段階は省略)。続いて第三読会にかけられる。庶民院における第三読会は形式的なものだが、貴族院ではここでも修正討論が行われる。「第三読会を終了する」との動議が可決されると法案はその院を通過する。, ほとんどの場合、法案は庶民院においても貴族院においても修正を受ける。庶民院では政治的な観点での修正が主だが、貴族院では字句の整合性・法理的整合性の観点からの修正が主である。そのため貴族院での修正討論は細部にまでわたることが多い。貴族院は政治的な修正はほとんどしないので庶民院に送付されても賛成を得られるのが通常である。庶民院が貴族院の修正を否決した場合は庶民院は貴族院に否決理由を述べて再審議を要求するが、それでも両院が合意できなければ議会法に基づく処置がなされる。ただし現実には議会法の定めが利用されることはほとんどなく、庶民院が貴族院の修正を否決して貴族院に戻した場合は、貴族院はそれに賛成して対決を避けるのが一般的である。, 貴族院での表決方法には発声表決と分列表決が取られている。発声表決とは貴族院議長の呼びかけに対して議員たちが「Content(賛成)」「Not Content(反対)」と声を上げ、議長が声の大きい方を可決させる表決方法である。その議長判断に対して異議が出された場合は分列表決が行われる。これは賛否に応じて二列に分かれた議員たちが議場の左右に存在する賛成者用廊下と反対者用廊下を通過して別々の入口から再度貴族院議場に入場し、その際に計算係(tellers)が数を数えてその人数の大小で表決する方法である。, 貴族院の上訴管轄権は古くはイングランド王国内の裁判所(とりわけ王座裁判所)の上訴に限られていたが、ウェールズやアイルランドの属領化でこれらの地域の裁判所の上訴案件も扱うようになり、さらに1707年のスコットランド統合でスコットランド高等法院(英語版)からの上訴案件も扱うようになった(ただしスコットランド高等法院の上訴は民事のみだった)。アイルランドの上訴管轄権は、1783年に一時アイルランド貴族院へ移管されたものの、1800年のアイルランド統合で結局イギリス貴族院へ戻っている。, 上訴裁判権は貴族院の一部ではなく、貴族院全体に属するのが原則であるが、1844年の判例以降、上訴案件を扱う時の貴族院の審議は法律に明るい貴族院議員のみで行う慣例ができた。しかしそうそう法律に明るい貴族院議員がいるわけではないので、1876年には上訴管轄権法が制定され、司法官僚が法服貴族(一代貴族)として貴族院議員に登用されるようになった。, 1948年まで上訴案件の審議は、貴族院全体が上訴案件を裁くという形式を重んじて貴族院本会議場で行われていた。しかし戦時中に庶民院本会議場が空襲で焼失し、貴族院本会議場が庶民院の仮議場として使われるようになったのを機に上訴案件審議は委員会室で行われるようになり、1948年5月にはこれを常態化させる形で委員会室を使う事が定められた(「上訴委員会(Appellate Committee)」と呼ばれる)。1960年代には第二上訴委員会も設置され、同時並行で二案件を審議できるようになった。上訴委員会は通常5人の法服貴族(難しい問題では7人)で法廷を構成した。ただし上訴委員会で判決を下すことはできず、上訴委員会は報告を本会議に送り、本会議での採決によって判決が下された。, しかし上院が最高裁判所機能を有するというのは、近代立憲主義の憲法原則とされる権力分立の観点からは問題視され、ヨーロッパ人権条約(第6条で「法律にもとづいて設置された裁判所において独立した公平な裁判を受ける権利が保障される」べきことを要請)をはじめとするEU法体系にも抵触する可能性が高かった。そのためトニー・ブレア政権は2005年に憲法改革法を制定。これに基づいて2009年10月1日をもって貴族院の最高裁判所権能は連合王国最高裁判所に移行することとなった。, 慣習により現在のイギリス政府は庶民院の信任を背景に成立しているが、貴族院の信任を受ける必要はないと考えられている。20世紀を通じて労働党政権時も貴族院は常に保守党によって多数を握られていたし、1999年貴族院改革以降の貴族院はどこの党も多数派になっていないためである。, また非公選制議会たる貴族院が問責動議を可決させるべきではないというのは貴族院内で広く認識されており、20世紀中に貴族院で問責動議が可決されたことはない。同様に内閣不信任決議を行った事もない。1993年に貴族院から内閣不信任動議が出されたことはあるものの、可決に至っていない。万が一可決された場合どうなるかは分からない。貴族院の内閣不信任は首相に辞任を強制する力はないかもしれないが、1世紀以上可決された事例がないので不明である。, 19世紀までさかのぼると1864年7月に庶民院・貴族院両方で行われた第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル内閣に対する不信任動議採決で、庶民院では否決、貴族院では可決という結果が出たが、パーマストン卿は庶民院の採決の方が重いとして総辞職を拒否した事例が存在する。, 歴史的に貴族院は王権と対立することが少なかったので、貴族院議員には議員特権意識は薄いが、院の自律権と貴族固有の権利として以下のような特権を保持している。, 貴族院議員は現在に至るまで無報酬である。対して庶民院議員は1911年以降報酬が出されている。貴族院議員や1911年以前の庶民院議員が無報酬であるのは彼らのほとんどが大地主あるいは企業経営者の一族であって、巨額の資産をもっているからである。20世紀以降台頭した労働党の議員はそうではない者が多く、労働組合からの政治献金で生計を立てていたが、労働組合の資金を政治献金に使うことを禁じる貴族院判決が出たことでそれが成り立たなくなり、代わりの救済措置として1911年から庶民院議員のみ報酬が出されるようになった。一方、貴族院議員は一代貴族であってもそれ以前の職業生活の中での蓄えと一般よりはるかに高い年金があるために無報酬でもやっていけるため、現在でも無報酬となっている。, 聖職貴族以外の貴族院議員は原則として終身であり、辞職や除名といった制度はなく、特定の場合に議員資格を停止されるか「請暇の許可(leave of absence)」の申請ができるだけであった。この従来の制度は2014年貴族院改革法(英語版)制定に伴って、一定条件下における失職を認めるように改善された。加えて、翌年に成立した2015年貴族院法は貴族院の議決によって、議員の除名及び登院停止を認めるに至った。, 貴族院議員は庶民院の選挙権および庶民院議員資格を有さない(貴族院議員ではない貴族・国教会聖職者は有する)。, 貴族院議員たる地位を認められない事由として「1.
2020 イギリス 貴族院 なぜ