根も幹も枝ものこらず朽果てし 楠の薫りの高くもあるかな, 国史学者・笹川臨風は、「乃木将軍閣下は楠公以降の第一人なり」と乃木を評しており[227]、伏見宮貞愛親王は乃木について、「乃木は楠木正成以上の偉い人物と自分は思う」「乃木の忠誠、決して楠公のそれに下るべからず」と述べている[228]。, 若い頃より歯が悪く、43歳の時点ですでに下顎に数本の歯が残っているのみであり、明治24年(1891年)には入れ歯が合わないことを理由とする休職願を陸軍大臣・高島鞆之助に提出している[229]。, 乃木は静堂の号を持ち漢詩[注釈 29]をよくした。乃木が作成した漢詩の中でも『金州城外の作』、『爾霊山』および『凱旋』は特に優れているとされ、「乃木三絶」と呼ばれている[230]。, 山川草木轉荒涼 (山川草木転(うた)た荒涼) 萬人齊仰爾靈山 (万人斉(ひと)しく仰ぐ爾霊山), 皇師百萬征強虜 (皇師百萬強虜を征す) 旧乃木邸の観光情報 営業期間:開園時間:9:00~16:00、交通アクセス:(1)乃木坂駅から徒歩で1分。旧乃木邸周辺情報も充実しています。東京の観光情報ならじゃらんnet 旧乃木邸と馬小屋は、乃木夫妻の殉死後、遺言により東京市に寄付され、 Amazonで福田 和也の乃木希典 (文春文庫)。アマゾンならポイント還元本が多数。福田 和也作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。また乃木希典 (文春文庫)もアマゾン配送商品なら通常配送無料。 司馬遼太郎の「殉死」には乃木将軍は愚将だと書かれています。その根拠は203高地での軍事作戦にあったようです。ところで他の文献で乃木将軍が愚将だったというような話は見たことがありません。実際のところどうだったのでしょうか? 源三はなんとしても出陣しようと、脱藩を決意して馬関(現・山口県下関市)まで出たが、追捕され、明倫館に戻された[16]。, 慶応4年1月(1868年2月)、報国隊の漢学助教となるが、11月(同年12月)には藩命により、伏見御親兵兵営に入営してフランス式訓練法を学んだ[17]。これは、従兄弟であり報国隊隊長であった御堀耕助が、源三に対し、学者となるか軍人となるか意思を明確にせよと迫り、源三が軍人の道を選んだことから、御堀が周旋した結果発令されたという[18]。, 明治2年7月(1869年8月)、京都河東御親兵練武掛となり、次いで、明治3年1月4日(1870年2月4日)、豊浦藩(旧長府藩)の陸軍練兵教官[19][20]として、馬廻格100石を給された。, そして、明治4年11月23日(1872年1月3日)、黒田清隆の推挙を受けて大日本帝国陸軍の少佐に任官し、東京鎮台第2分営に属した[21]。当時22歳の源三が少佐に任じられたのは異例の大抜擢であった[22][注釈 6]。乃木は少佐任官を喜び、後日、少佐任官の日は「生涯何より愉快だった日」であると述べている[24][25]。, 明治4年12月(1872年1月)、正七位に叙された源三は、名を希典と改めた[26]。その後、東京鎮台第3分営大弐心得[注釈 7]および名古屋鎮台大弐を歴任し、明治6年(1873年)3月、越前護法大一揆鎮圧に出動する[28]。同年明治6年6月25日には従六位に叙される[29][26]。, 明治7年(1874年)5月12日、乃木は家事上の理由から辞表を提出して4か月間の休職に入るが、9月10日には陸軍卿伝令使となった。この職は、陸軍卿(当時は山縣有朋)の秘書官または副官といった役割であった。なお、この時期の乃木は、まっすぐ帰宅することはほとんどなく、夜ごと遊興にふけり、山縣から説諭を受けるほどだった[30]。, 明治8年(1875年)12月、熊本鎮台歩兵第14連隊長心得に任じられ、小倉(現・福岡県北九州市小倉北区)に赴任した。不平士族の反乱に呼応する可能性があった山田頴太郎(前原一誠の実弟)が連隊長を解任されたことを受けての人事であった[31][32]。連隊長心得就任後、実弟の玉木正誼(たまき まさよし、幼名は真人。当時、玉木文之進の養子となっていた)がしばしば乃木の下を訪問し、前原に同調するよう説得を試みた。しかし乃木はこれに賛同せず、かえって山縣に事の次第を通報した[33][32]。, 明治9年(1876年)、福岡県秋月(現・同県朝倉市秋月)で旧秋月藩士の宮崎車之助らによる秋月の乱が起きると、乃木は、他の反乱士族との合流を図るため東進する反乱軍の動向を察知し、秋月の北に所在する豊津(現・同県京都郡みやこ町豊津)においてこれを挟撃して、反乱軍を潰走させた[34]。, 秋月の乱の直後、山口県萩(現・同県萩市)で萩の乱が起こった。この乱の最中、弟の正誼は反乱軍に与して戦死し、学問の師である文之進は自らの門弟の多くが反乱軍に参加したことに対する責任をとるため自刃した[35][36]。萩の乱に際し、乃木は麾下の第14連隊を動かさなかった。これに対し福原和勝陸軍大佐は乃木に書簡を送り、秋月の乱における豊津での戦闘以外に戦闘を行わず、大阪鎮台に援軍を要請した乃木の行為を批判し、長州の面目に関わると述べて乃木を一方的に非難した。対して乃木は小倉でも反乱の気配があったことなどを挙げて連隊を動かさなかったことの正当性を説明したところ、福原も懸念が氷解し[37][注釈 8]、乃木に激励の手紙を出している[39]。, 明治10年(1877年)2月5日、西郷隆盛は私学校における幹部会議で挙兵を決断する。この情報はいち早く政府側にも伝わったらしく、翌6日の乃木の日誌に陸軍卿山県有朋より鹿児島にて暴動の形跡があり、警備の内示があった事が記述されている。翌7日には歩兵1個中隊の長崎分派の電命があり11日早朝に出発させているが長崎県令から更なる兵力増加の要請が入る。乃木は薩軍に海上から長崎に侵攻する能力はないと判断しこれを拒絶している[40]が、一方で薩軍の北上を警戒し久留米に早期に兵力を出すよう熊本鎮台に要請している[41]。, 2月14日、鎮台司令長官谷干城の命を受けて小倉から熊本に到着し作戦会議に参加、会議では鎮台全兵力をもって籠城する事に決し、乃木は小倉の歩兵第十四連隊を率いるために16日に熊本を出発し17日夜に福岡に着、そこで薩軍の鹿児島出発の報を受ける。2月19日、乃木は小倉から前進してくる第十四連隊の各隊を掌握しつつ福岡県久留米(現・同県久留米市)に、21日夜には南関に到達した[42][注釈 9]。2月22日夕刻、熊本県植木町(現・同県熊本市植木町)付近において薩軍との戦闘に入った。乃木の連隊は主力の出発が遅れた上に強行軍を重ねていたため薩軍との戦闘に入った当時、乃木が直率していた将兵は200名ほどに過ぎなかった。これに対し、乃木を襲撃した西郷軍は400名ほどだった[43]。乃木は寡兵をもってよく応戦し3時間ほど持ちこたえたが、乃木はこの薩軍を応援の政府軍主力を迎撃に出た薩軍の前衛と考え、連隊だけでこれらを突破して熊本城に入城するのは困難と判断。現在地の死守も地形的に難しく各個撃破される恐れがあったので、午後9時頃後方の千本桜まで随時後退することとした[44]。その際に、連隊旗を保持していた河原林雄太少尉が討たれ薩軍の岩切正九郎に連隊旗を奪われてしまう。薩軍は、乃木隊から奪取した連隊旗を見せびらかして気勢を上げたという[45][46][47]。翌23日には木葉付近で薩軍と交戦しその前進を阻んだが第三大隊長の吉松速之助少佐が戦死している。この後連隊は更に菊池川右岸の石貫まで後退するが、薩軍を引き付けた事で政府軍の進出を援護する事となり、早くも25日には先方部隊が戦場に到達、歩兵第十四連隊単独での薩軍との死闘は終焉を迎えた[48]。, 2月25日夜、歩兵第十四連隊は第二旅団(旅団長:三好重臣少将)の指揮下に入る。26日には第一旅団と共に政府軍は攻勢に転じ、第十四連隊は前衛として出撃、安楽寺山付近の薩軍を撃破し田原坂の上まで進出する。しかし三好旅団長は薩軍の反撃を警戒して乃木に後退を指令、乃木は田原坂確保の必要性を強く意見具申するが旅団長の厳命により田原坂を放棄し石貫まで後退した[49]。田原坂を手放したことで同地は再び薩軍が占領、政府軍は3月20日に再占領するまで17日間の日数と約3000人の犠牲を払い、一日平均銃弾30万発、砲弾約1000発を消費する事になる[50][注釈 10]。, 27日、薩軍は攻勢に転じ、左翼より桐野利秋指揮の3個小隊約600名が山鹿方面より、中央に篠原国幹、別府晋介率いる6個小隊約1,200名が植木、木葉方面より、左翼より村田新八率いる5個小隊約1,000名が吉次・伊倉方面よりそれぞれ進撃し政府軍と交戦する(高瀬の戦い)。乃木は桐野率いる左翼軍と交戦し側面を衝いた野津鎮雄少将率いる第一旅団と共にこれを撃破、桐野は他の薩軍部隊に無断で左翼軍を後退させた結果薩軍全体の総崩れとなり、西南戦争最大の野戦となる高瀬の戦いは政府軍の勝利に終わる[51]。この戦いは両軍に大きな損害を与え、薩軍では西郷の末弟西郷小兵衛が戦死する。乃木も負傷入院となり前線から退き久留米の軍団病院に入院する[52]。それでも乃木は3月19日に病院を脱走し前線に復帰、翌20日には田原坂は陥落し乃木は21日に第一旅団参謀兼務を命じられる[53]。その後も乃木は、部下の制止を振り切って連隊を指揮し、重傷を負って野戦病院に入院したにもかかわらず、なお脱走して戦地に赴こうとしたために「脱走将校」の異名をとった。この時の負傷により、左足がやや不自由となる[54][55]。, 4月18日、乃木は薩軍の包囲から解放された熊本城に入場、22日付で中佐に進級する[53]。乃木は連隊旗喪失を受けて官軍の実質的な総指揮官であった山縣に対し、17日付けの「待罪書」を送り、厳しい処分を求めた。これに対し、山縣からは、戦闘中での事例であり、不可抗力であるとして不問に付す旨の指令書が返信された[注釈 11]。この時乃木は自責の念を抱いて幾度も自殺を図ろうとし、熊本鎮台参謀副長だった児玉源太郎少佐が自殺しようとする乃木を見つけ、乃木が手にした軍刀を奪い取って諫めたという[57][54][注釈 12]。, 中佐に進級した4月22日、乃木は熊本鎮台幕僚参謀となって第一線指揮から離れた[注釈 13]。以後は補給などの後方業務を担当するが、8月の可愛嶽付近の戦闘では直接第一線の指揮を執っている。, 明治11年(1878年)1月25日、乃木は東京の歩兵第一連隊長に抜擢される。熊本から故郷の萩を経て2月14日に着任した乃木は、10月27日に旧薩摩藩藩医の娘・お七(結婚後に「静子」と改名した。「静」ともいわれる。)と結婚する。秋月の乱に始まる一連の不平士族の鎮圧で実弟など親族を失った乃木は東京に移ってから柳橋や新橋、両国の料亭への放蕩が激しくなり、静子との祝言当日も料理茶屋に入り浸り、祝言にも遅刻したという。乃木の度を超した放蕩は、ドイツ留学まで続いた[59][47]。その放蕩ぶりは「乃木の豪遊」として周囲に知れ渡ったという[60]。, 歩兵第一連隊長時代の乃木は西南戦争の経験から白兵戦術よりも射撃戦術の向上を図り部下に訓練を課した。しかし当時射撃練習場に適した場所は深川越中島にある旧式かつ手狭なものが1か所だけであり、当時兵営が赤坂にあった第一連隊は訓練に支障が出ていた。そこで乃木は新たな実弾射撃場の設立を意見具申、自ら率先して設営工事を手伝い、明治14年に青山射的場を完成させた[61]。, またこの頃の話として乃木は他隊との合同訓練ではいつも正面攻撃しか行わず、歩兵第二連隊長として佐倉(千葉県)にいた児玉源太郎との合同訓練では奇襲に敗れ児玉に揶揄われたという話も伝わっている[注釈 14]。, 明治12年(1879年)12月20日に正六位に叙され、翌年4月29日に大佐へと昇進し、6月8日には従五位に叙された[62]。, 明治16年(1883年)2月5日に東京鎮台参謀長に任じられ、明治17年(1885年)5月21日には最年少で少将に昇進し、歩兵第11旅団長に任じられた。また、7月25日には正五位に叙された[62]。, この間、長男・勝典(明治12年(1879年)8月28日生)および次男・保典(明治14年(1881年)12月16日生)がそれぞれ誕生している[62]。, 明治20年(1887年)1月から明治21年(1888年)6月10日まで、乃木は政府の命令によって、同じく陸軍少将の川上操六とともにドイツ帝国へ留学した[63]。乃木は、ドイツ軍参謀総長モルトケから紹介された参謀大尉デュフェーについて、後に第3軍で部下となる伊地知幸介中尉による通訳を介し『野外要務令』に基づく講義を受けた。次いで乃木は、ベルリン近郊の近衛軍に属して、ドイツ陸軍の全貌について学んだ[64]。ドイツ留学中、乃木は軍医として同じく留学中の森林太郎とも親交を深め、その交友関係は以後、長く続いた[65]。, 帰国後、乃木は復命書を陸軍大臣・大山巌に提出した。この復命書は、形式上、川上と乃木の連名であったが、川上は帰国後に病に伏したため筆を執れず、そのほとんどを乃木が単独で書いた。その内容は、軍紀の確保と厳正な軍紀を維持するための綱紀粛正・軍人教育の重要性を説き、軍人は徳義を本分とすべきであることや、軍服着用の重要性についても記述されていた[66][67]。, その後の乃木は、復命書の記述を体現するかのように振る舞うようになった。留学前には足繁く通っていた料理茶屋・料亭には赴かないようになり、芸妓が出る宴会には絶対に出席せず、生活をとことん質素に徹した。平素は稗を食し、来客時には蕎麦を「御馳走」と言って振る舞った[68]。また、いついかなる時も乱れなく軍服を着用するようになった[69]。, こうした乃木の変化について、文芸評論家の福田和也は、西南戦争で軍旗を喪失して以来厭世家となった乃木が、空論とも言うべき理想の軍人像を体現することに生きる意味を見いだしたと分析している[70]。一方、乃木に関する著書もある作家の松田十刻は、上記の「復命書」で軍紀の綱紀粛正を諫言した以上、自らが模範となるべく振舞わねばならないと考えての結果という分析をしている[71]。, 乃木は第11旅団(熊本)に帰任した後、近衛歩兵第2旅団長(東京)を経て、歩兵第5旅団長(名古屋)となった。しかし、上司である第3師団長・桂太郎とそりが合わず、明治25年(1892年)、病気を理由に2度目の休職に入った。休職中の乃木は、栃木県の那須野に購入した土地(現・同県那須塩原市石林、後の那須乃木神社)で農業に勤しんだ。これより後、乃木は休職するたびに那須野で農業に従事したが、その姿は「農人乃木」と言われた[72]。, 明治25年(1892年)12月8日、10か月の休職を経て復職し、東京の歩兵第1旅団長となった。明治27年(1894年)8月1日、日本が清に宣戦布告して日清戦争が始まると、10月、大山巌が率いる第2軍の下で出征した[73]。, 乃木率いる歩兵第1旅団は、9月24日に東京を出発し、広島に集結した後、宇品港(現・広島港、広島県広島市南区)を出航して、10月24日、花園口(現・中華人民共和国遼寧省大連市荘河市)に上陸した。11月から乃木は、破頭山、金州、産国および和尚島において戦い、11月24日には旅順要塞をわずか1日で陥落させた[74]。, 明治28年(1895年)、乃木は蓋平・太平山・営口および田庄台において戦った。特に蓋平での戦闘では日本の第1軍第3師団(司令官は桂太郎)を包囲した清国軍を撃破するという武功を挙げ、「将軍の右に出る者なし」といわれるほどの評価を受けた[75]。日清戦争終結間際の4月5日、乃木は中将に昇進して、宮城県仙台市に本営を置く第2師団の師団長となった[74][注釈 15]。また、8月20日には男爵として、華族に列せられることとなった。, 明治28年(1895年)5月、台湾民主国が独立を宣言したことを受けて日本軍は台湾征討(乙未戦争)に乗り出した。なお、同年4月に日清間で結ばれた下関条約により、台湾は日本に割譲されている。乃木率いる第2師団も台湾へ出征した[77]。, 明治29年(1896年)4月に第2師団は台湾を発ち、仙台に凱旋したが、凱旋後半年ほど経過した10月14日、乃木は台湾総督に任じられた[78]。乃木は、妻の静子および母の壽子を伴って台湾へ赴任した。乃木に課せられた使命は、台湾の治安確立であった[79]。, 乃木は、教育勅語の漢文訳を作成して台湾島民の教育に取り組み、現地人を行政機関に採用することで現地の旧慣を施政に組み込むよう努力した。また日本人に対しては、現地人の陵虐および商取引の不正を戒め、台湾総督府の官吏についても厳正さを求めた[80]。, しかし、乃木は殖産興業などの具体策についてはよく理解していなかったため、積極的な内政整備をすることができなかった。次第に民政局長・曾根静夫ら配下の官吏との対立も激しくなり、乃木の台湾統治は不成功に終わった[81]。, 明治30年(1897年)11月7日、乃木は台湾総督を辞職した。辞職願に記載された辞職理由は、記憶力減退(亡失)による台湾総督の職務実行困難であった。, 乃木による台湾統治について、官吏の綱紀粛正に努め自ら範を示したことは、後任の総督である児玉源太郎とこれを補佐した民政局長・後藤新平による台湾統治にとって大いに役立ったと評価されている[82]。また、台湾の実業家である蔡焜燦は「あの時期に乃木のような実直で清廉な人物が総督になって、支配側の綱紀粛正を行ったことは、台湾人にとってよいことであった」と評価する[83][84]。, 台湾総督を辞任した後休職していた乃木は、明治31年(1898年)10月3日、香川県善通寺に新設された第11師団長として復職した。, しかし、明治34年(1901年)5月22日、馬蹄銀事件[注釈 16]に関与したとの嫌疑が乃木の部下にかけられたことから、休職を申し出て帰京した。ただし、表向きの休職理由は、リウマチであった[85]。乃木は計4回休職したが、この休職が最も長く、2年9か月に及んだ。, 休職中の乃木は、従前休職した際と同様、栃木県那須野石林にあった別邸で農耕をして過ごした。農業に勤しみつつも、乃木はそれ以外の時間はもっぱら古今の兵書を紐解いて軍事研究にいそしみ、演習が行われると知らされれば可能な限り出向き、軍営に寝泊まりしてつぶさに見学してメモをとり、軍人としての本分を疎かにはしなかった[86]。, 日露戦争開戦の直前である明治37年(1904年)2月5日、動員令が下り、乃木は留守近衛師団長として復職した。しかし、乃木にとって「留守近衛師団長」という後備任務は不満であった[87]。, 5月2日、第3軍司令官に任命された。乃木はこれを喜び、東京を出発する際に見送りに来た野津道貫陸軍大将に対し、「どうです、若返ったように見えませんか? ども白髪が、また黒くなってきたように思うのですが」と述べている[88][89]。同年6月1日、広島県の宇品港を出航し、戦地に赴いた。[90]。, 乃木が日本を発つ直前の5月27日、長男の勝典が南山の戦いにおいて戦死した。乃木は、広島で勝典の訃報を聞き、これを東京にいる妻・静子に電報で知らせた。電報には、名誉の戦死を喜べと記載されていたといわれる。勝典の戦死は新聞でも報道された[92]。, 乃木が率いる第3軍は、第2軍に属していた第1師団および第11師団を基幹とする軍であり、その編成目的は旅順要塞の攻略であった[93]。, 明治37年(1904年)6月6日、乃木は遼東半島の塩大澳に上陸した。このとき乃木は児玉源太郎らと共に大将に昇進し、同月12日には正三位に叙せられている[90][注釈 17]。, 第3軍は、6月26日から進軍を開始し、8月7日に第1回、10月26日に第2回、11月26日に第3回の総攻撃を行った[注釈 18]。 今の日本人が「ノギ」ときいたら、多くの人が「乃木坂46」を思い浮かべると思う。それはいいよ。でも、それだけじゃ残念。ちなみに、江戸時代、乃木坂は「幽霊坂」と呼ばれていた。というのは、どうでもいいですか?でも、日本人として、乃木坂の「乃木」の意味は知っておいてほしい。 「やはり公平を期するために、乃木希典の異なる評価を同じく『日露戦争』からそのまま引用してみたい。」という文章と、末尾の『週刊読売』昭和43年7月21日号より採録、を読み早とちりしました。しかも読売新聞と週刊読売を混同しています。多謝。 引用元:函館乃木神社公式hp . 乃木希典は、司馬遼太郎が描いたような無能の将軍ではなかった 情熱的読書人間・榎戸 誠 司馬遼太郎は、『坂の上の雲』(司馬遼太郎著、文春文庫、全8巻)で、乃木希典(まれすけ)の無能ぶりを暴くのと対照的に、児玉源太郎の優秀さを強調している。 乃木希典はまた異なるパターンですが、いつの時代海外でも、数世代前のある偉人が評価を得るということはあって、それにたいして疑問を呈する姿勢ってはあるべきですね。著者の場合は元から思っていたことなんでしょうが。 海外の反応・歴史 当時はかなりの衝撃的事実だったと思うよ。 ロシアは大国だったし、日本はロシアに勝つまでは名前を知らない人も多かったに違いあない。 例えるならベトナムが中国を倒すくらいのことだったんじゃないのか? 海外の反応・歴史 歴… 乃木希典 評価 乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年12月25日) - 1912年(大正元年)9月13日)は、日本の武士(長府藩士)、陸軍軍人、教育者。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、 … これは昭和館で聞くことができる[237]ほか、ビクターエンタテインメントが発売した「戦中歌年鑑(1)昭和4~12年」にも収録されている[238]。 。各国報道機関では乃木を日本軍の名将として紹介している[165][注釈 28]。, また、日露戦争での日本の勝利は、ロシアの南下政策に苦しめられていたオスマン帝国で歓喜をもって迎えられた。乃木はオスマン帝国でも英雄となり、子どもに乃木の名前を付ける親までいたという[217]。, 現役の陸軍大将として軍事参議官に親補されていた乃木は、大正元年(1912年)に満62歳で殉死しており、前述の通り元帥府には列せられていない。しかし、乃木が殉死せずにもっと長生きしていれば、彼が元帥府に列せられていた可能性は高いとする説が有力である。, 明治40年(1907年)に乃木が学習院長を兼任した時に、陸軍将校分限令の規定によって予備役に編入されるべきところを、明治天皇の勅命により現役に留まるという異例の人事がなされたことについて、桑原嶽は「これは当然、終身現役である元帥への昇進の含みもあったからであろう。」と述べている[139]。, もしも乃木が明治天皇に殉死していなかったら、乃木はいずれ元帥府に列せられたかどうかにつき、軍事史家の横山恵一は「歴戦の功将、人格高潔な武将という点で元帥を選考するなら、乃木は将に将たる器で、選に入ったのではないですか。」と述べ、秦郁彦は「〔乃木が〕生きていれば大正四年〔1915年〕に長谷川好道、貞愛親王、川村景明といっしょにね。」と述べている[218]。実際には前述の通り、乃木に元帥の称号を贈る話は生前からあったものの、本人がこれを固辞していたとも言われている。, 乃木は、日露戦争において多くの兵士を無駄に死なせてしまったことを心底から悔い、生涯にわたって自責の念に苛まれ続けていた。乃木が前述の通り元帥の称号を断り、最終的に割腹自殺したのも、日露戦争で多くの兵士を死なせたことに対する自責の念が最大の理由だったとする意見は根強い。, 少将時代の乃木が訪れた金沢の街で辻占売りの少年を見かけた。その少年が父親を亡くしたために幼くして一家の生計を支えていることを知り、少年に当時としてはかなりの大金である金2円を渡した。少年は感激して努力を重ね、その後金箔加工の世界で名をなしたという逸話によるものである。乃木の人徳をしのばせる逸話であり、後に旅順攻囲戦を絡めた上で脚色され「乃木将軍と辻占売り」という唱歌や講談ダネで有名になった[225]。, 乃木は楠木正成を深く崇敬した。乃木の尽忠報国は正成を見習ったものである。乃木は正成に関する書物をできる限り集め考究した。正成が子の正行と別れた大阪府三島郡島本町の史蹟桜井駅跡の石碑の「楠公父子訣別之所」という文字は乃木によって書かれたものである。そして、乃木は楠木正成について次のような歌を詠んでいる[226]。, いたづらに立ち茂りなば楠の木も いかでかほりを世にとどむべき ただし、「乃木将軍の肉声と其憶出(乃木将軍の肉声)」と後年発売のCDでは内容が異なる。「乃木将軍の肉声と其憶出(乃木将軍の肉声)」では小笠原の解説の後に「私は乃木希典であります」の録音が二度続くのに対し、CDでは三上の解説の後に乃木、小笠原、石栗剛三[注釈 30]、内村義一郎[注釈 31]、徳永熊雄[注釈 32]、高山昇、今井清彦[注釈 33]、湯地(ゆじ)丈雄ほか1名[注釈 34]が次々と挨拶を吹き込んでいる[232]。 乃木希典大将は、以前からお名前はよく知っていのですが、明治のその時代の歴史もあまり詳しく知らず、ネットで少しずつ知るようにはなったけど、今回のこのお話はほとん… その際、出席者の一人が、乃木に対し、蓄音機に声を吹き込んで欲しいと依頼した。すると乃木は、「おう、それはおもしろい。皆さんと一緒に吹き込もうではないか。」と述べ、三上参次文学博士の紹介に次いで、「私は乃木希典であります」という声を吹き込んだ[235]。, この音声は、昭和5年(1930年)12月に相談会の出席者でもあった小笠原長生の解説を付して「乃木将軍の肉声と其憶出(乃木将軍の肉声)」として発売された[236]。 旧乃木邸の口コミ一覧ページ(3ページ目)。口コミ評点:3.9(口コミ件数29件)。「乃木神社参拝の折に訪ねる」や「乃木夫妻が晩年まで過ごした場所」などの口コミが集まっています。 乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年 12月25日) - 1912年(大正元年)9月13日)は、日本の武士(長府藩士)、陸軍 軍人、教育者。 日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇の後を慕って殉死したことで国際的にも著名である。 階級は陸軍大将。 乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年12月25日) - 1912年(大正元年)9月13日)は、日本の武士(長府藩士)、陸軍軍人、教育者。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇の後を慕って殉死したことで国際的にも著名である。階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めた。「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれることも多く、「乃木神社」や「乃木坂」に名前を残している。, 幼名は無人(なきと)で、その後、源三と改め、頼時とも称した[1][注釈 1]。さらに後、文蔵、次いで希典と名を改めた。また、出雲源氏佐々木氏の子孫と称したことから「源希典」との署名もよく用いた[3][注釈 2]。, 嘉永2年11月11日(1849年12月25日)、長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次(馬廻、80石)と壽子(ひさこ、「壽」とする文献もある[5])との三男として、江戸の長府藩上屋敷(毛利甲斐守邸跡、現・東京都港区六本木)に生まれた。希典の長兄および次兄は既に夭折していたため世嗣となる。, 幼名は無人(なきと)。兄たちのように夭折することなく壮健に成長して欲しい、という願いが込められている[5]。, 父・希次は江戸詰の藩士であったため、無人は10歳までの間、長府藩上屋敷において生活した。, 幼少時の無人は虚弱体質であり、臆病であった。友人に泣かされることも多く、無人の名にかけて「泣き人」(なきと)とあだ名された。, 父は、こうした無人を極めて厳しく養育した。例えば、「寒い」と不平を口にした7歳の無人に対し、「よし。寒いなら、暖かくなるようにしてやる。」と述べ、無人を井戸端に連れて行き、冷水を浴びせたという。この挿話は、昭和初期の日本における国定教科書にも記載されていた[6]。, 詳しい時期は不明だが、無人は左目を負傷して失明している。その原因として、一説には、ある夏の日の朝、母の壽子が蚊帳を畳むため寝ている無人を起こそうとしたが、ぐずぐずして起きなかったので、「何をしている」とたしなめ、畳みかけた蚊帳で無人の肩を叩いた際、蚊帳の釣手の輪が無人の左目にぶつかってしまったことによるという。後年、乃木は、左目失明の原因を明らかにしたがらなかった。失明の経緯を明らかにすれば母の過失を明らかにすることになるため、母も気にするだろうから他言したくない、と述べたという[7][注釈 3]。, 安政5年11月(1858年12月)、父・希次は、藩主の跡目相続に関する紛争に巻き込まれ、長府(現・山口県下関市)へ下向するよう藩から命じられた上、閉門および減俸の処分を与えられた。無人もこれに同行し、同年12月(1859年1月)、長府へ転居した[8]。, 安政6年4月(1859年5月)、11歳になった無人は、漢学者の結城香崖に入門して漢籍および詩文を学び始めた。また、万延元年1月(1860年2月)以降、流鏑馬、弓術、西洋流砲術、槍術および剣術なども学び始めた[8]。, しかし、依然として泣き虫で、妹にいじめられて泣くこともあった。文久2年6月20日(1862年7月16日)、集童場に入った。同年12月(1863年2月)、元服して名を源三と改めたが、依然、幼名にかけて「泣き人」と呼ばれ、泣き虫であることを揶揄された[8]。, 元治元年3月(1864年4月)[注釈 4]、16歳の源三は、学者となることを志して父・希次と対立した後、出奔して、長府(現・山口県下関市)から70km以上離れた萩(現・同県萩市)まで徒歩で赴き、兵学者の玉木文之進への弟子入りを試みた。玉木家は乃木家の親戚筋であった。文之進は、源三が希次の許しを得ることなく出奔したことを責め、武士にならないのであれば農民になれと述べて、源三の弟子入りを拒絶した。しかし結局、源三は玉木家に住むことを許され、文之進の農作業を手伝う傍ら、学問の手ほどきを受けた[9][10]。, 元治元年9月(1864年10月)から、源三は萩藩の藩校・明倫館の文学寮に通学することとなった。一方で、同年11月(同年12月)から一刀流剣術も学び始めた[注釈 5]。一刀流については、明治3年1月(1870年2月)に、技術習得を意味する「目録伝授」されている。, 元治2年(1865年)、源三は集童場時代の友人らと盟約状を交わして、長府藩報国隊を組織した[11]。, 慶応元年(1865年)、第二次長州征討が開始されると、同年4月(同年5月)、萩から長府へ呼び戻された。源三は長府藩報国隊に属し、山砲一門を有する部隊を率いて小倉口(現・山口県下関市)での戦闘(小倉戦争)に加わった。この際、奇兵隊の山縣有朋指揮下で戦い、小倉城一番乗りの武功を挙げた[12]。しかし、そのまま軍にとどまることはなく、慶応2年(1866年)、長府藩の命令に従い、明倫館文学寮に入学(復学)した[11]。, その後、報国隊は越後方面に進軍して戦闘を重ねたが、これに参加しなかった。明倫館在籍時に講堂で相撲を取り、左足を挫いたことから、藩が出陣を許さなかったのである[13][14][15]。 Amazon.com で、乃木希典 の役立つカスタマーレビューとレビュー評価をご覧ください。ユーザーの皆様からの正直で公平な製品レビューをお読みください。 その後、「乃木将軍の肉声と其憶出(乃木将軍の肉声)」が発売された同じ年に、日本ビクターおよび小笠原から乃木神社へ市販盤と、そのスタンパが奉納された[244]。それ以外の資料一切は、湯地家関連資料に関しては昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で灰燼に帰して現存しない[243]。協栄生命保険元取締役[245]でSPレコード愛好家の志甫哲夫は、金属原盤をテープ化する頃には湯地原版のみ残存しており、そこからCD用の音源を制作したと推定しているが[246]、湯地原版の所在は「処分されたか或いは戦災で消失したか」で不明である[247]。なお、宝映が昭和32年(1957年)4月に公開した「日露戦争と乃木将軍」という映画には湯地原版が写っている[248]。また、長田幹彦によれば大正14年(1925年)11月3日(明治節)のJOAK(東京放送局)での講演放送で湯地原版を使用して乃木の肉声を放送したところ、「当時非常なセンセーションを捲き起した」[249]。, 当該録音に先立つ明治42年(1909年)10月15日には、同じ偕行社で行われた加藤清正300年祭に関する第1回目の相談会で湯地敬吾が乃木の演説の録音に挑戦したが、この時の録音は復元が試みられたものの、最終的には再生は不可能だった[250]。, 湯地丈雄・敬吾の湯地家と乃木の妻・静子の実家である湯地家とは血縁がない[251]。 ここに1枚の写真がある。 穏やかな朝の風景。 食卓を囲んで、夫は静かに新聞を読み、妻はその傍らに立つ。 大正元(1912)年9月30日。 何も変わったことのない、いつもの朝だった。いや、1つ変わっているとすれば。この日の2人は終始、にこやかであったという。 なお、「乃木将軍の肉声と其憶出(乃木将軍の肉声)」のB面には乃木の辞世、東郷平八郎および小笠原長生の詠んだ歌に橋本國彦が作曲し、合唱および徳山璉の歌唱による「乃木将軍の歌」が収録されている[239]。, この録音が実現した背景には、乃木とともにその肉声を吹き込んだ湯地丈雄が乃木の知遇を得ていたことから実現したもので、録音は湯地丈雄の息子である湯地敬吾が、自身が作成した円盤式録音装置で行われた[240][232][241]。 読みについて志甫哲夫は、静子の実家である湯地家は「ゆち」であり、湯地丈雄・敬吾の湯地家は湯地富雄によれば読みは「ゆじ」であり、その理由として「父からの教え」・「細川侯がそう言って父(敬吾)を呼んでいた」・「熊本の知人がそう呼ぶ」ことを挙げていることを根拠としている[251]。, 乃木が殉死した2ヶ月後、主演尾上松之助、監督牧野省三のゴールデンコンビによる『乃木将軍と生涯』が追悼公開された。6年後の1918年(大正7年)から山本嘉一が当たり役として乃木を7本演じた。戦前の作品は岩田祐吉が乃木を演じた『陸軍大行進』(松竹蒲田、1932年)の不完全版のみフィルムセンターにプリントが残っている。戦後は新東宝の「明治天皇もの」三部作と『日本海大海戦』の笠智衆と、乃木は全て脇役での登場であったが、1980年(昭和55年)の『二百三高地』での仲代達矢の熱演によって、ようやく乃木はスクリーンの主役に返り咲いた[282]。 もっとも、この映画での乃木は位置づけとしては群像劇の頂点であるのに対し、20年先立つ『明治大帝と乃木将軍』は、クレジット上の扱いは低い(明治天皇、昭憲皇后をトップとして第二クレジットで4名連記の扱い)ものの事実上全編乃木を主役として描いている。, なお、後に日露戦争で同僚となる将軍たちの初任官の年齢は野津道貫(明治4年)30歳少佐、黒木為禎(明治4年)27歳大尉、奥保鞏(明治4年)25歳大尉心得、児玉源太郎(明治4年)準少尉19歳、川村景明(明治5年)22歳少尉である, 但し先発の二個中隊(第一大隊の第三第四中隊)は19日午後に熊本城に入城し籠城戦に加わっている。, この三好の決断については後世批判もあるが、自身も陸軍士官学校52期卒でビルマなどで戦い、戦後は自衛隊に入り陸将補として退官した桑原嶽は当時の両軍の戦力から考えて三好の懸念も妥当であり、乃木の進言を受け入れていれば, なお軍旗を神聖視するようになったのは西南戦争から日露戦争を経て多くの激戦を経験してからであり、創設まもない当時はまだ軍旗を神聖視する風潮はなかった, なお歩兵第十四連隊には翌明治11年1月21日に連隊旗が再授与されている。奪われた軍旗も再授与後に発見され陸軍省が回収保管している。, 中西は、死地を求める乃木の行動を耳にした明治天皇が、乃木を前線指揮官の職から外すよう指示したとしている, 但し桑原嶽は著書で連隊規模の部隊が平時で演習する場合、最も重視する演習科目は火力で制圧しつつ敵陣地に近迫する「攻撃前進」であり、それは昭和期の日本陸軍では歩戦砲飛の協同と呼び、現在の米軍では「火力支援調整(Fire Support Coordination)」と呼んでいて重要視している。その火力は他部隊の砲兵火力(現在ではこれに戦車や航空戦力等も加わる)との連携であるので、奇襲でなくなるのは当然であり、とどのつまり「正面攻撃」になるのは当然であるとしている。, この中将昇進は少将に昇進した明治17年から11年以上も経過し旅団長を4回もしていることから、乃木の軍事的無能から進級が遅れたという論調があるが、桑原嶽によると少将昇進までハイスピードで進級した乃木が中将進級を足踏みさせられた可能性があり、当時の日本陸軍の規模から考えて中将が任じられる役職は多くなく、進級に11年を要した事が、乃木の能力が原因であるという論調は的を得たものではないと述べている。なお、乃木と一緒に少将となった9名のうち、乃木よりも先に中将に昇進したのは6名(川上操六、桂太郎、黒木為禎、奥保鞏など)だが、どれも乃木より年長者の上陸軍在籍年数も長い先輩であり、乃木よりも昇進が速いのは当然である。また乃木より遅れて少将に昇進した者(児玉源太郎など)で乃木を追い越して中将に昇進した人物は一人もいない, 敵陣地に対する「正攻法」とは、既に占領した地点から敵陣地の前面ぎりぎりまで塹壕を掘り進んで進撃路を確保し、歩兵の進撃の際には十分に支援砲撃を行う攻撃方法を指す。, S・ウォシュバンは当時はシカゴニュース紙の記者で従軍記者として乃木第3軍に付き添っていた, 中嶋 繁雄 『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』 青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、165頁, デイリー東北新聞社 新井田川漫歩 第6部 雪谷川水系・軽米 乃木将軍の愛馬 日清、日露両戦争に同行, http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0082/BO00820L019.pdf, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=乃木希典&oldid=80696921, 乃木は、1912年(大正元年)9月13日午後7時40分ころ、東京市赤坂区新坂町(現・東京都港区赤坂八丁目)の自邸居室において、明治天皇の, 将軍(乃木)はあらかじめ自刃を覚悟し、12日の夜に『遺言条々』を、13日に他の遺書や, 乃木は、いくつかの遺書を残した。そのうちでも『遺言条々』と題する遺書において、乃木の自刃は西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死である旨を述べ、その他乃木の遺産の取扱に関しても述べていた, ヴォーバンの戦術論(近代要塞に対する攻撃方法)に関する書物を読了することは軍人の当然の義務であった。しかし乃木は、近代要塞に関する専門知識を有しなかった, 乃木は司令部を過剰に後方へ設置したので、前線の惨状を感覚として知ることができず、児玉源太郎からも非難された, 第1回総攻撃は、あえて強靱な盤竜山および東鶏冠山の中央突破という机上の空論を実行に移したものであった, 早期に203高地を攻め、そこからロシア海軍の旅順艦隊を砲撃しさえすれば、要塞全体を陥落させずとも旅順攻囲戦の作戦目的を達成することができ、兵力の損耗も少なくてすんだはずである。しかし、乃木は、203高地の攻略を頑なに拒み, 旅順要塞は無視してしまうのが正解であり、ロシア軍が旅順要塞から出撃してきた場合に備えて抑えの兵を残しておけば十分であった, 乃木は、児玉源太郎に指揮権を委譲し、ようやく、203高地を陥落させることができた。児玉が指揮を執らなかったなら、損害は拡大していた, 日露戦争当時、塹壕を突破して要塞を陥落させる方法は、ある程度の犠牲を計算に入れた歩兵による突撃以外に方法がなく、有効な戦術が考案されたのは第一次世界大戦中期であるから、後世の観点から乃木を批判すべきではない, 乃木率いる第3軍の司令部があまりに後方に設置されていたのと批判は当たらない。戦闘指令所が置かれた団山子東北方高地は、前線(東鶏冠山)まで直線距離にして3kmであり、戦況を手に取るように見える距離である。よって、攻撃中止の判断も迅速に行うことができた, 第3軍に大本営より手渡されていた旅順の地図には旅順要塞の堡塁配置などに誤りがあり(例えば203高地などの前進陣地が書かれていない。東北方面の東鶏冠山などの堡塁が臨時築城の野戦陣地となっているなど)日本軍全体で要塞の規模を把握していなかった。敵陣地の規模が不明な以上、攻略地点を自軍に有利な東北方面にする(鉄道や道路があり部隊展開に有利。西北方面はそれがなく準備に時間を要しないと不利)のは当たり前の決断と言える, 旅順要塞に対して残置すべき兵力は4万ほどになると思われるから、たとえ第3軍が北上しても奉天会戦において活躍することはできなかった, 児玉源太郎が第3軍に与えた指示は予備の重砲の配置変換であり、同士討ち覚悟の連続射撃も攻城砲兵司令部の判断で実施されている, 時間があれば戦死者の遺族を訪問し、「乃木があなた方の子弟を殺したにほかならず、その罪は割腹してでも謝罪すべきですが、今はまだ死すべき時ではないので、他日、私が一命を国に捧げるときもあるでしょうから、そのとき乃木が謝罪したものと思って下さい」と述べていた, 乃木が歩兵第11旅団長の旅団長として熊本に赴任していた際に生まれた子だったが、生後間もなく夭折し, 1942年 シンガポール陥落「乃木大将(2銭)寄付金1銭」 - 上記に「シンガポール陥落」スタンプと寄付金「+1」を追加したもの, スタンレー・ウォシュバン 『乃木大将と日本人』 目黒真澄訳、講談社学術文庫(新版), 木立順一『偉人伝:児玉源太郎(前篇)現代人が今一番目指すべき姿』メディアポート 2014年4月, 廣木寧『天下なんぞ狂える―夏目漱石の『こころ』をめぐって』(上)(慧文社)2016年, 廣木寧『天下なんぞ狂える―夏目漱石の『こころ』をめぐって』(下)(慧文社)2016年. 今回の乃木大將のお話は心にジ~ンと響くものがありました。 私の年代(60代)ならかろうじて乃木大将のお名前ぐらいは頭の隅で聞いた覚えがありますが、今の小学生、中学生、高校生、大学生、20代の人たちはどうなのでしょうか? 日本経済新聞の電子版。日経や日経BPの提供する経済、企業、国際、政治、マーケット、情報・通信、社会など各分野のニュース。ビジネス、マネー、it、スポーツ、住宅、キャリアなどの専門情報も満載。 乃木と湯地丈雄は、この明治24年(1891年)に第3師団で行われた元寇に関する湯地丈雄の講演会の後に開かれたパーティーで初めて対面したが[242]、この時乃木は、「外敵は今後も元寇と同様国の西北から来襲するとの確信から」[242]「元寇の講話をして国民の惰眠を醒まそうとする行動の動機」[242]について語った湯地丈雄に対し「君の祖母に当たる位の婦人の教育が然らしめた筈だ」と答えて湯地丈雄を驚かせた[242]。湯地丈雄はまた、乃木の私室に湯地津尾子が私塾の外で論語の素読を書き取っている姿が描かれている掛け軸が掛かっているのを見て、「以来将軍と私は肝胆相照らす」[242]関係を作ることとなった。, 乃木らの肉声が収められたスタンパ(湯地原版)は湯地家の「家宝」[233]となり、長田幹彦の仲介で日本ビクターに有償譲渡された記録がある[243]。 乃木希典の生き方というか「心」「誠実さ」を祀っているといったところでしょうか . 凱歌今日幾人還 (凱歌今日幾人か還る), 崚曾富嶽聳千秋 (崚曾たる富岳千秋に聳(そび)ゆ) 野戰攻城屍作山 (野戦攻城屍山を作(な)す) 乃木と湯地丈雄の関係は明治24年(1891年)までさかのぼる。湯地丈雄の祖母である湯地津尾子が女手一つで丈雄に教育を施し、その善行貞節ぶりに乃木の母である壽子が私淑して教育方針に取り入れ、その流れで乃木自身も湯地津尾子を尊敬するようになった[242]。 日露戦争での旅順攻囲戦や、明治天皇の後を慕って殉死したことでも知られる乃木希典。そんな乃木が「戦下手な愚将」と認識されがちなのは、司馬遼太郎氏の著作に原因があると指弾する書籍が話題となっています。その衝撃的な内容とは?今… Amazon.com で、乃木希典 の役立つカスタマーレビューとレビュー評価をご覧ください。ユーザーの皆様からの正直で公平な製品レビューをお読みください。 また、白襷隊ともいわれる決死隊による突撃を敢行した[94]。, 乃木はこの戦いで正攻法[注釈 19]を行い、ロシアの永久要塞を攻略した。第1回目の攻撃こそ大本営からの「早期攻略」という要請に半ば押される形で強襲作戦となり(当時の軍装備、編成で要塞を早期攻略するには犠牲覚悟の強襲法しかなかった)、乃木の指揮について、例えば歩兵第22連隊旗手として従軍していた櫻井忠温は「乃木のために死のうと思わない兵はいなかったが、それは乃木の風格によるものであり、乃木の手に抱かれて死にたいと思った」と後年述べたほどである。乃木の人格は、旅順を攻略する原動力となった[95]。, 乃木は補充のできない要塞を、正攻法で自軍の損害を抑えつつ攻撃し、相手を消耗させることで勝利出来ると確信していたが、戦車も航空機もない時代に機関砲を配備した永久要塞に対する攻撃は極めて困難であった。第3軍は満州軍司令部や大本営に度々砲弾を要求したものの、十分な補給が行われることはついになかった。旅順攻撃を開始した当時、旅順要塞は早期に陥落すると楽観視していた陸軍内部においては、乃木に対する非難が高まり、一時は乃木を第3軍司令官から更迭する案も浮上した。しかし、明治天皇が御前会議において乃木更迭に否定的な見解を示したことから、乃木の続投が決まったといわれている[96]。また、大本営は、第3軍に対して、直属の上級司令部である満州軍司令部と異なる指示を度々出し、混乱させた。特に203高地を攻略の主攻にするかについては、第3軍の他にも、軍が所属する満州軍の大山巌総司令や、児玉源太郎参謀長も反対していた。それでも大本営は海軍側に催促されたこともあり、満州軍の指導と反する指示を越権して第3軍にし、乃木たちを混乱させた[97]。, 乃木に対する批判は国民の間にも起こり、東京の乃木邸は投石を受けたり、乃木邸に向かって大声で乃木を非難する者が現れたりし、乃木の辞職や切腹を勧告する手紙が2,400通も届けられた[98][99][100]。, 11月30日、第3回総攻撃に参加していた次男・保典が戦死した。6か月前の5月27日の長男・勝典の戦死直後、保典が所属していた第1師団長の伏見宮貞愛親王は、乃木の息子を二人戦死させては気の毒だろうと考え、保典を師団の衛兵長に抜擢した。乃木父子は困って辞退したが、親王は「予の部下をどのように使おうと自由であり司令官の容喙は受けない」と言い張った[101]。保典の戦死を知った乃木は、「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ」と述べたという[102][103]。長男と次男を相次いで亡くした乃木に日本国民は大変同情し、戦後に「一人息子と泣いてはすまぬ、二人なくした人もある」という俗謡が流行するほどだった[104]。なお、乃木は出征前に「父子3人が戦争に行くのだから、誰が先に死んでも棺桶が3つ揃うまでは葬式は出さないように」と夫人の静に言葉を残していた[105]。, 明治38年(1905年)1月1日、要塞正面が突破され、予備兵力も無くなり、抵抗は不可能になった旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセリ(ステッセルとも表記される)は、乃木に対し、降伏書を送付した。これを受けて1月2日、戦闘が停止され、旅順要塞は陥落した[106][107]。, なお、この戦いに関する異説として、旅順に来た児玉源太郎が指揮をとって203高地を攻略したというものがある。この異説は、作家の司馬遼太郎が著した小説が初出で世に広まり、以降の日露戦争関連本でも載せられるほどとなった。しかし、司馬作品で発表される以前にはその様な話は出ておらず、一次史料にそれを裏付ける記述も一切存在しない[108]。203高地は児玉が来る前に一度は陥落するほど弱体化しており、再奪還は時間の問題であった。, また、この戦いで繰り広げられた塹壕陣地戦は、後の第一次世界大戦の西部戦線を先取りするような戦いとなった。鉄条網で周囲を覆った塹壕陣地を、機関銃や連装銃で装備した部隊が守備すると、いかに突破が困難になるかを世界に知らしめた。他にも、塹壕への砲撃はそれほど相手を消耗させないことや、予備兵力を消耗させない限り敵陣全体を突破するのは不可能であることなど、第一次世界大戦でも言われた戦訓が多くあった。しかし、西洋列強はこの戦いを「極東の僻地で行われた特殊なケース」として研究せずに対策を怠り、結果的に第一次世界大戦で大消耗戦の悲劇を招いた[109] 。, 旅順要塞を陥落させた後の明治38年(1905年)1月5日、乃木は要塞司令官ステッセリと会見した。この会見は水師営において行われたので、水師営の会見といわれる。会見に先立ち、明治天皇は、山縣有朋を通じ、乃木に対し、ステッセリが祖国のため力を尽くしたことを讃え、武人としての名誉を確保するよう命じた[110]。, これを受けて、乃木は、ステッセリに対し、極めて紳士的に接した。すなわち、通常、降伏する際に帯剣することは許されないにもかかわらず、乃木はステッセリに帯剣を許し、酒を酌み交わして打ち解けた[111]。また、乃木は従軍記者たちの再三の要求にもかかわらず会見写真は一枚しか撮影させずに、ステッセリらロシア軍人の武人としての名誉を重んじた[112][113]。, 敵将(ステッセリ)に失礼ではないか 乃木希典の墓を実際に訪れた旅行者が徹底評価!日本最大級の旅行クチコミサイト フォートラベルで乃木希典の墓や他の観光施設の見どころをチェック! 乃木希典の墓は青山で20位の名所・史跡です。 乃木希典は日清戦争、日露戦争で活躍し、世界的にも有名な日本人のひとりです。明治天皇が崩御した際に殉死したことで、神格化される存在になりました。この記事では、そんな彼の壮絶な生涯と、知っておくべき意外な事実、さらにおすすめの本をご紹介していきます。, 乃木希典(のぎまれすけ)は1849年、長州藩の支藩・長府藩である乃木希次(まれつぐ)の三男として誕生しました。兄2人は夭逝していたため、世嗣として育てられています。, 幼い頃は虚弱体質で、よく友人にも泣かされていたそうです。父はこのような乃木に対して厳しく接していたようです。この頃、不慮の事故で左目を負傷、後に失明しています。, 1864年、16歳になった乃木は学者を志し、父親に反対されるもひとり萩へ赴きます。藩校の明倫館へ通いって学ぶ傍ら、剣術も習いはじめました。しかし江戸幕府が長州征討を開始したため、翌年には呼び戻されてしまいました。この時の戦いで彼は戦果を挙げ、評価されています。, その後、復学した後に陸軍に入り、1872年には少佐に任官、1875年には熊本へ赴任します。そこで反政府の士族が起こした「秋月の乱」を鎮圧し、1877年の「西南戦争」時は西郷隆盛軍と戦いました。, しかし部下が討たれ連隊旗が敵方に奪われててしまうと、乃木は意気消沈。戦いが終わっても気持ちが上向きにならず、何度も自殺未遂をくり返して放蕩生活を送ることになります。, 1885年少将になり、1887年からはドイツへ留学。陸軍について学んでいます。そして帰国後の乃木は態度を一変、生活は質素になり、軍人教育の重要性や軍紀を厳しくすることを説きました。, 1894年から始まった「日清戦争」では、旅順要塞を1日で陥落させるなどの武功を上げます。1904年からの「日露戦争」では、日本から清へ返還され、当時ロシアの基地となっていた旅順要塞の再びの攻略を任されました。, この戦争で乃木は長男、次男をたて続けに亡くしましたが、旅順要塞を陥落。その後、ロシア軍人が降伏する際におこなわれた会見での、乃木の紳士的な振る舞いは、世界的にも賞賛されています。, また彼は、日露戦争における最後の会戦である「奉天会戦」にも参加、勝利を上げました。彼の活躍は日本国民に知れ渡り、歓迎ムードのなかで東京に戻ります。, しかし乃木自身は、旅順を攻略するのに半年もかかったことや、多くの死傷者を出したことなどから、自刃して罪を償いたいと明治天皇に奏上するのです。この時天皇は「もし死ぬならば、私が死んだ後にせよ」という趣旨の言葉を述べたそうです。, 1907年、明治天皇の意向で、軍事参議官と学習院院長を兼任することとなりました。後の昭和天皇が入学してくると、その教育を担当しています。, 1912年7月、明治天皇が崩御。乃木は9月の大葬が執りおこなわれた日の夜に、妻と共に自刃しました。62歳でした。, 乃木希典の名は世界に名将として知れ渡っているものの、国内ではその評価が分かれています。しかしながら、乃木の死後は各地に乃木神社が建立され、乃木坂といった彼の名前に改称した地名もできました。彼が亡くなった際には、昭和天皇も涙を浮かべたそうです。, 乃木は漢詩を得意としていて、彼が自刃した際には「ニューヨーク・タイムズ」にも訃報とともに掲載されたそうです。, 彼の詠んだ作品のなかでも、「金州城外の作」、「爾霊山」、「凱旋」は特に優れているとされていて、「乃木三絶」ともいわれています。このうちの「爾霊山」をご紹介しましょう。, 「爾霊山」というのは、旅順にある203高地(にひゃくさんこうち)という丘陵の当て字です。ここは日露戦争で激戦地となった場所でした。, 乃木本人が人に明かさなかったのであまり知られていませんが、彼は子供のころに左目を失明しています。, 母親が蚊帳をはずそうとして、吊手が左目に直撃したのが原因だといわれていますが、母親の折檻によって傷つけられたという話もあり、友人の桂弥一は「寝ている彼の左目を蚊帳の吊手で叩いた」という記述も残しています。, 乃木はかねがね母親から、早く嫁をもらうよう言われていましたが「30歳を過ぎたら」と言い逃れを続けていました。いざ30歳になると、今度は「薩摩の女なら」と言いはじめます。, 長州の薩摩嫌いを逆手に取ったものでしたが、彼の母親は、当時20歳になる薩摩藩医の娘・阿七(おしち)を連れてきたのです。, 1887年のドイツ留学中、同様に陸軍から派遣されていた一等軍医の森林太郎(後の森鴎外)が彼の宿舎を訪ねてきました。, 森はその日の日記に「乃木は長身巨頭、沈黙厳格の人なり」と書き残しています。留学中に親しくなった2人の交友は、帰国後も長く続いたそうです。, 1888年6月、乃木はドイツ留学から帰国します。留学中にドイツ陸軍将校の長靴と軍服を深く印象付けられた彼は、家でも接客する際は軍服になり、背広は着ても和服は着なくなりました。, 放浪していた時代に紬のそろいで芸者遊びをしていた姿とは、別人のようになったと言われています。, 乃木は日露戦争の際、満州にて、世界各国の観戦武官たちと歓談したり、通信員と会見したりしています。1904年11月、アメリカ合衆国からは、観戦武官を命じられた父親の副官として、当時25歳のマッカーサー中尉がやってきました。乃木はマッカーサーにシャンパンを振る舞うなどして、打ち解けていたといいます。, 乃木の残っている写真は、すべて軍人になってからの物です。1872年に陸軍少佐になった時の写真は、嬉しさのあまり焼き増しして、友人や知人に配ったといわれています。この時が彼の初めて写真撮影でした。, 最後の写真となったのは、自刃当日の朝、妻の静子と一緒に写ったものと、一人で正装した全身像です。, 彼は栃木県の那須高原に別荘を持っていました。ここで過ごす際は、時間にまかせて石を探し歩いたそうです。, 「石は形が面白くても、坐りが良いものでなくてはいけない」という哲学の持ち主でもありました。, 1907年、乃木は陸軍大将のまま学習院院長に任命されます。明治天皇が自分の孫たちの教育を乃木に託そうとしたためです。学習院では剣道、柔道、水泳、馬術を奨励し、洋風のスポーツは好みませんでしたが、スキーだけは奨励しました。, また全寮制にし、特に男子学生には日々の細々としたことまで指示を出していたそうです。, 60歳を超えた乃木は、老眼鏡がないと文字が読めなくなっており、失明している左目には白斑があらわれていました。歯は総入れ歯で、リウマチも患います。, 左腕と右足の弾傷は冬になるとうずくこともあり、若い頃からの痔も悪くなっていく一方。まさに満身創痍の状態でした。, ここからは、乃木希典を描いた書籍を5冊ご紹介します。乃木の評価は人によってさまざまで、名将とも愚将ともいわれています。, 皆さんも、異なる立場から描かれた作品を読んでみて、乃木のことをどのように評価すればよいのか、あらためて考えてみませんか。, 本作には、日露戦争での彼の指揮ぶりと明治天皇への殉死が描かれていますが、作中で乃木のことを「無能」と評価しているのです。これもまた、彼の一面を表すものでしょう。, 一方で、その後のロシア軍に対する対応で、乃木は英雄だと世界から褒めたたえられるのです。本書からは評価が二分する乃木の人物像がはっきりと浮かび上がってきます。自分の信念に基づいて行動し、愚将だったのかもしれませんが、劇的な人生を送った乃木。明治天皇や昭和天皇から寵愛されながらも、心は死へと向かっていました。なぜ夫人とともに殉死することを選んだのかを知ることは、生と死について考えるきっかけを与えてくれます。殉死する前の、夫人の胸中を推測する最後のシーンが印象的で、胸がいっぱいになることでしょう。, 司馬の作品はあくまで小説ですが、著者のもつ影響力の高さから、まるっきりの事実だと思ってしまう人も多いのでしょう。そこで本書では、乃木が愚将だったというのは間違いで、やはり英雄であるということを史実に基づいて証明していきます。, 著者は陸上自衛隊で陸将補を務めた人物で、戦争時の戦略分析も優れています。乃木がどのように戦い、日本を勝利へと導いたのかが良くわかることでしょう。, 軍事能力に関して言えばもしかしたら無能であったかもしれませんが、彼の素晴らしいところは徳を持っていたところであり、立派であろうと努力したところなのです。乃木の人物像を見つめ直すことができます。, リーダーとして必要なものは何なのかと考えさせられることでしょう。ビジネス論としても読むことができる作品です。, 若いころは芸者遊びを毎日のように行い放浪していたことや、ドイツに留学して人が変わったようになったこと、日露戦争の真実、殉死までの様子などから乃木の真実の姿を見ることができることでしょう。, 部下は乃木の命令に喜んで従い、乃木自身は自分を犠牲にして部下のことを考えていたというように、彼がどれだけ優れた軍人であったかということを述べている作品です。, このように乃木の優れていた面は人格面であると著者は考えています。多くの人が死んでいった旅順での戦いでしたが、きちんと統率され、戦いに赴いていった部下たちを作り上げたのは乃木です。その点だけでも評価するに値するのではないでしょうか。, 部下の死に悲しむ姿、戦時中の日常生活、敵兵に対しても敬意を持つ心……従軍記者から見た彼の姿は、私たちに乃木の実像を教えてくれます。, 乃木希典は名将か、愚将か。それは一人一人が感じることなのでしょうね。世界でも賞賛されていることを考えると、人格的には優れていたのではないかと感じられます。ぜひさまざまな角度から書かれた本を読んでみてくださいね。, ホンシェルジュはamazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。, 向井理のおすすめ実写化映画10選、テレビドラマ20選!異色の経歴を活かした役柄に注目, 男子たるもの、名声をあげるためには、どんな困難にも打ちかつ覚悟が大切で、その決意で激戦をして旅順を落とすことができた。. 日露戦争での旅順攻囲戦や、明治天皇の後を慕って殉死したことでも知られる乃木希典。そんな乃木が「戦下手な愚将」と認識されがちなのは、司馬遼太郎氏の著作に原因があると指弾する書籍が話題となっています。その衝撃的な内容とは?今… 金州城外立斜陽 (金州城外斜陽に立つ), 爾靈山嶮豈難攀 (爾霊山(にれいさん)の険豈に攀(よ)ぢ難からんや) Amazonで福田 和也の乃木希典 (文春文庫)。アマゾンならポイント還元本が多数。福田 和也作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。また乃木希典 (文春文庫)もアマゾン配送商品なら通常配送無料。 乃木希典大将は、以前からお名前はよく知っていのですが、明治のその時代の歴史もあまり詳しく知らず、ネットで少しずつ知るようにはなったけど、今回のこのお話はほとん… 日露戦争での敗戦国であるロシアに対しての寛大な処分をしたことで. 十里風腥新戰場 (十里風腥(なまぐさ)し新戦場) 乃木希典は大日本帝国陸軍大将で、日露戦争における旅順攻囲線の指揮をして活躍した人物です。また、昭和天皇の教育係を務め、明治天皇が崩御された際殉職したことが国内外を問わず有名な人物です。 ここに1枚の写真がある。 穏やかな朝の風景。 食卓を囲んで、夫は静かに新聞を読み、妻はその傍らに立つ。 大正元(1912)年9月30日。 何も変わったことのない、いつもの朝だった。いや、1つ変わっているとすれば。この日の2人は終始、にこやかであったという。 乃木神社を実際に訪れた旅行者が徹底評価!日本最大級の旅行クチコミサイト フォートラベルで乃木神社や他の観光施設の見どころをチェック! 乃木神社は下関で29位の寺・神社です。