žé‰„道の日米共同経営をいったん仮合意させた。 日本国内においては、政府の思惑と国民の期待のあいだに大きな隔たりがあり[21]、一方、日本とロシアとのあいだでは、「賠償金と領土割譲」の2条件に関して最後の最後まで議論が対立した[10]。, ロシア全権大使ウィッテは、7月19日、サンクト・ペテルブルクを出発し、8月2日にニューヨークに到着した。ただちに記者会見を試み、ジャーナリストに対しては愛想良く対応して、洗練された話術とユーモアにより、米国世論を巧みに味方につけていった[10][11]。ウィッテは、当初から日本の講和条件が賠償金・領土割譲を要求する厳しいものであることを想定して、そこを強調すれば米国民がロシアに対して同情心を持つようになるだろうと考えたのである[10]。実際に「日本は多額の賠償金を得るためには、戦争を続けることも辞さないらしい」という日本批判の報道もなされ、一部では日本は金銭のために戦争をしているのかという好ましからざる風評も現れた[10]。, それに対して小村は、外国の新聞記者にコメントを求められた際「われわれはポーツマスへ新聞の種をつくるために来たのではない。談判をするために来たのである」とそっけなく答え、中には激怒した記者もいたという[10]。小村はまた、マスメディアに対し秘密主義を採ったため、現地の新聞にはロシア側が提供した情報のみが掲載されることとなった[10][注釈 8]。明らかに小村はマスメディアの重要性を認識していなかった[11]。, 講和会議の公式会場はメイン州キタリーに所在するポーツマス海軍工廠86号棟であった。海軍工廠(ポーツマス海軍造船所)はピスカタカ川の中洲にあり、水路の対岸がニューハンプシャー州ポーツマス市[注釈 9]である。日本とロシアの代表団は、ポーツマス市に隣接するニューカッスル(英語版)のホテルに宿泊し、そこから船で工廠に赴いて交渉を行った。, 講和会議は、1905年8月1日より17回にわたって行われた[6]。8月10日からは本会議が始まった[11]。また、非公式にはホテルで交渉することもあった。, 8月10日の第一回本会議冒頭において小村は、まず日本側の条件を提示し、逐条それを審議する旨を提案してウィッテの了解を得た。小村がウィッテに示した講和条件は次の12箇条である。, それに対してウィッテは、8月12日午前の第二回本会議において、2.3.4.6.8.については同意または基本的に同意、7.については「主義においては承諾するが、日本軍に占領されていない部分は放棄できない」、11.については「屈辱的約款には応じられないが、太平洋上に著大な海軍力を置くつもりはないと宣言できる」、12.に対しては「同意するが、入江や河川にまで漁業権は与えられない」と返答する一方、5.9.10については、不同意の意を示した[11]。この日は、第1条の韓国問題についてさらに踏み込んだ交渉がなされた[11]。ウィッテは、日露両国の盟約によって一独立国を滅ぼしては他の列強からの誹りを受けるとして、これに反対した[24]。しかし、強気の小村はこれに対し、今後、日本の行為によって列国から何を言われようと、それは日本の問題であると述べ、国際的批判は意に介せずとの姿勢を示した[24]。ウィッテも譲らず、交渉は初手から難航した[11][24]。これをみてとったロマン・ローゼンは、この議論を議事録にとどめ、ロシアが日本に抵抗した記録を残し、韓国の同意を得たならば、日本の保護権確立を進めてもよいのではないかという妥協案をウッィテに示した[24]。小村もまた、韓国は日本の承諾がなければ、他国と条約を結ぶことができない状態であり、すでに韓国の主権は完全なものではないと述べた[24]。ウィッテは小村の主張を聞いて、ローゼンの妥協案を受け入れた[24]。こうして、1.についても同意が得られた。, 8月14日の第3回本会議では第2条・第3条について話し合われ、難航したものの最終的に妥結した。15日の第4回本会議では第4条の満州開放問題が日本案通りに確定され、第5条の樺太割譲問題は両者対立のまま先送りされた。16日の第5回本会議では第7条・第8条が討議され、第7条は原則的な、第8条は完全な合意成立に至った[11]。, 8月17日の第6回本会議、18日の第7回本会議では償金問題を討議したが、成果が上がらず、小村全権の依頼によって、かねてより渡米し日本の広報外交を担っていた金子堅太郎がルーズベルト大統領と会見して、その援助を求めた[11]。ルーズベルトは8月21日、ニコライ2世あてに善処を求める親電を送った。, 8月23日の第8回本会議では、ウィッテは小村に対し「もしロシアがサハリン全島を日本にゆずる気があるならば、これを条件として、日本は金銭上の要求を撤回する気があるか」という質問をなげかけた[25]。ロシアとしては、これをもし日本が拒否したならば、日本は金銭のために戦争をおこなおうとする反人道的な国家であるという印象を世界がいだくであろうと期待しての問いであった[25]。それに対し、小村は樺太はすでに占領しており、日本国民は領土と償金の両方を望んでいると応答した[25][26]。ルーズベルトは日本に巨大な償金の要求をやめよと声をかけた[25]。, ルーズベルトは再び斡旋に乗りだしたが、ニコライ2世に講和を勧める2度目の親書の返書を受け取ったとき「ロシアにはまったくサジを投げた。講和会議が決裂したら、ラムスドルフ外相とウィッテは自殺して世界にその非を詫びなければならぬ」と口荒く語ったといわれている。8月26日午前の秘密会議も午後の第9回本会議も成果なく終わった[11]。しかし、このとき高平との非公式面談の席上、ロシアは「サハリン南半分の譲渡」を示唆したといわれる[26]。しかし、小村らはロシアは毫も妥協を示さないとして、談判打ち切りの意を日本政府に打電した[26]。, 政府は緊急に元老および閣僚による会議を開き、8月28日の御前会議を経て、領土・償金の要求を両方を放棄してでも講和を成立させるべし、と応答した。全権事務所にいた随員も日本から派遣された特派記者もこれには一同たいへんな衝撃を受けた[27]。, これに前後して、ニコライ2世が樺太の南半分は割譲してもよいという譲歩をみせたという情報が同盟国イギリスから東京に伝えられたため、8月29日午前の秘密会議、午後の第10回本会議では交渉が進展し、南樺太割譲にロシア側が同意することで講和が事実上成立した[26]。これに先だち、ウィッテはすでに南樺太の割譲で合意することを決心していた[28]。第10回会議場から別室に戻ったウィッテは「平和だ、日本は全部譲歩した」とささやき、随員の抱擁と接吻を喜んで受けたといわれている[11]。, アメリカやヨーロッパの新聞は、さかんに日本が「人道国家」であることを賞賛し、日本政府は開戦の目的を達したとの記事を掲載した[27]。皇帝ニコライ2世は、ウィッテの報告を聞いて合意の成立した翌日の日記に「一日中頭がくらくらした」とその落胆ぶりを書き記しているが、結局のところ、ウィッテの決断を受け入れるほかなかった[28]。9月1日、両国のあいだで休戦条約が結ばれた。, 以上のような曲折を経て、1905年9月5日(露暦8月23日)、ポーツマス海軍工廠内で日露講和条約の調印がなされた。ロシア軍部には強い不満が残り、ロシアの勝利を期待していた大韓帝国の皇帝高宗は絶望した[28]。, ポーツマス会議における日本全権小村壽太郎の態度はロシア全権ウィッテと比較してはるかに冷静であったとロシア側の傍聴者が感嘆して記している[29]。すでに日本の軍事力と財政力は限界に達しており、にもかかわらず日本の国民大衆はそのことを充分認識していないという状況のなか、ロシアの満州・朝鮮からの撤兵という日本がそもそも日露戦争をはじめた目標を実現し、新たな権益を獲得して強国の仲間入りを果たした[29]。, ウィッテは、ロシア国内に緒戦の敗北は持久戦に持ち込むことによって取り戻すことができるとする戦争継続派が存在するなかの交渉であった。講和会議が決裂した場合には、ウィッテが失脚することはほぼ間違いない状況であった[29]。国内の混乱も極限状態であり、革命前夜といってよかった。ウィッテは小村以上の窮状に身をおきながら、日本軍が侵攻した樺太全島のうち、北緯50度以南をあたえただけで北部から撤退する約束のみならず、賠償金支払いをおこなわない旨の合意を日本から取り付けることができた[29]。, 日本は1905年10月10日に講和条約を批准し、ロシアは10月14日に批准している[11]。, 「金が欲しくて戦争した訳ではない」との政府意向と共に賠償金を放棄して講和を結んだことは、日本以外の各国には好意的に迎えられ、「平和を愛するがゆえに成された英断」と喝采を送った外国メディアも少なくなかった。しかし日本国民の多くは、連戦連勝の軍事的成果にかかわらず、どうして賠償金を放棄し講和しなければならないのかと憤った[29]。有力紙であった『万朝報』もまた小村全権を「弔旗を以て迎えよ」とする社説を掲載した[11]。しかし、もし戦争継続が軍事的ないし財政的に日本の負荷を超えていることを公に発表すれば、それはロシアの戦争継続派の発言力を高めて戦争の長期化を促し、かえって講和の成立を危うくする怖れがあったため、政府は実情を正確に国民に伝えることができなかったのである[29]。, 日本政府としては、このような大きなジレンマをかかえていたが、果たして、ポーツマス講和条約締結の9月5日、東京の日比谷公園で小村外交を弾劾する国民大会が開かれ、これを解散させようとする警官隊と衝突し、さらに数万の大衆が首相官邸などに押しかけて、政府高官の邸宅、政府系と目された国民新聞社を襲撃、交番や電車を焼き打ちするなどの暴動が発生した(日比谷焼打事件)[30]。群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の米国公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となった[11][29]。結局、政府は戒厳令をしき軍隊を出動させた[30]。こうした騒擾は、戦争による損害と生活苦に対する庶民の不満のあらわれであったが、講和反対運動は全国化し、藩閥政府批判と結びついて、翌1906年(明治39年)、第1次桂内閣は退陣を余儀なくされた。, ルーズベルト大統領の意向を受けてエドワード・ヘンリー・ハリマンが来日し、1905年10月12日に奉天以南の東清鉄道の日米共同経営を規定した桂・ハリマン協定が調印されたが、モルガン商会からより有利な条件を提示されていた小村外相の反対によって破棄された[3]。, 清国に対しては、1905年12月、満州善後条約が北京において結ばれ、ポーツマス条約によってロシアから日本に譲渡された満州利権の移動を清国が了承し、加えて新たな利権が日本に対し付与された。すなわち、南満洲鉄道の吉林までの延伸および同鉄道守備のための日本軍常駐権ないし沿線鉱山の採掘権の保障、また、同鉄道に併行する鉄道建設の禁止、安奉鉄道の使用権継続と日清両国の共同事業化、営口・安東および奉天における日本人居留地の設置、さらに、鴨緑江右岸の森林伐採合弁権獲得などであり、これらはいずれも戦後の満洲経営を進める基礎となり、日本の大陸進出は以後いっそう本格化した。, 大韓帝国皇帝高宗はロシア勝利を期待したため、深く失望したといわれる[28]。韓国に関しては、7月の桂・タフト協定でアメリカに、8月の第二次日英同盟条約でイギリスに、さらにこの条約ではロシアに対しても、日本の韓国に対する排他的優先権が認められ、11月の第二次日韓協約によって韓国は外交権を失った。12月、首都漢城に統監府が置かれ、韓国は日本の保護国となった。, この条約の結果、日本は「一等国」と自称するようになった。当時の大国に所在した日本の在外公館は、多くは公使館であったがいずれも大使館に昇格し、在東京の外国公使館も大使館に格上げされることとなった[31]。しかし、その一方、国民のあいだでは従来の明確な国家目標が見失われ、国民の合意形成は崩壊の様相を呈した[32]。, セオドア・ルーズベルト米大統領は、この条約を仲介した功績が評価されて、1906年にノーベル平和賞を受賞した。また、この条約ののちアメリカは極東地域への発言権と関与をしだいに強めていった。ルーズベルトの意欲的な仲介工作によって、ポーツマス講和会議は国際社会における「アメリカの世紀」への第一歩となったという評価もある[1]。だが上記のような暴動・講和反対運動が日本国内で起こったことは、日本政府が持っていた戦争意図への不信感を植えつける結果になってしまった。, ロシアでは、皇帝の専制支配に対する不満が社会を覆い、10月に入るとインフレーションに対する国民の不満は一挙に爆発してゼネスト(ゼネラル・ストライキ)の様相を呈した。講和会議のロシア全権であったセルゲイ・ウィッテは混乱収拾のために十月詔書を起草、皇帝ニコライ2世はそれに署名した。しかし、なおもロシア第一革命にともなう混乱は1907年までつづいた。, 小村はといえば、講和会議直後の9月9日、滞米中に発病して、医師より絶対安静を命じられ、9月14日付の電報で腸チフス初期の兆候であることを桂太郎に伝えている[17]。元来、小村には肺結核の持病があったが、心身ともに疲弊して帰国したのがようやく10月16日のことであった[33]。その日、横浜港に停泊していた日本艦隊と来舶中の英国艦隊は礼砲を撃ったが、横浜市民は小村が上陸すると知るや、英国艦隊歓迎のために掲げた国旗を皆おろしてしまったという[33]。しかし、伊藤博文は小村を出迎え、厚く慰労のことばをかけた[33]。また、留守宅襲撃と一家殺害の知らせを前もって聞いていた小村は、船内まで入ってきた長男小村欣一の姿をみて「おまえ生きておったか」と声をかけ、しばらく愛息の顔を見つめていたと伝わっている[33]。新橋駅では、群衆より「速やかに切腹せよ」「日本に帰るよりロシアに帰れ」との罵声を浴びた[33]。乗降場に降り立った小村を、総理大臣桂太郎と海軍大臣山本権兵衛が左右両側から抱きかかえるように寄り添い、小村を撃とうとする者がいた場合に備えて命をかけて小村を守ったといわれている[33]。, ポーツマスはニューハンプシャー側に位置し、ポーツマス海軍工廠はメイン州側で州を挟んでいる。, 日本全権が宿舎としたウェントワース臨海ホテル(英語版)は1981年に閉鎖されたままとなっており、老朽化が著しく、雨漏りや傷みもひどかった。そこで、ポーツマス日米協会が窓口となって「ウェントワース友の会」が設立され、ホテルの再建計画が立てられ、復元作業がなされた[1][注釈 10]。, 公式会場となったポーツマス海軍工廠では、1994年3月、会議当時の写真や資料を展示する常設の「ポーツマス条約記念館」が開設された[1]。2005年、老朽化のため海軍工廠を閉鎖するとの政府決定が発表されたが、ポーツマスではそれに対する反対運動が起こり、その結果、閉鎖は撤回されている。, また、現地では、日米露3国の専門家による「ポーツマス講和条約フォーラム」が幾度か開催されており[1]、2010年にはニューハンプシャー州で9月5日を州の記念日にする条例が成立した[35]。, モンテネグロ公国は日露戦争に際してロシア側に立ち、日本に対して宣戦布告したという説がある。これについては、2006年(平成18年)2月14日に鈴木宗男議員が、「一九〇四年にモンテネグロ王国が日本に対して宣戦を布告したという事実はあるか。ポーツマス講和会議にモンテネグロ王国の代表は招かれたか。日本とモンテネグロ王国の戦争状態はどのような手続きをとって終了したか」との内容の質問主意書を提出[36]。これに対し日本政府は、「政府としては、千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。モンテネグロ国の全権委員は、御指摘のポーツマスにおいて行われた講和会議に参加していない」との答弁書を出している[37]。, ロシアの公文書を調査したところ、ロシア帝国がモンテネグロの参戦打診を断っていたことが明らかとなり、独立しても戦争状態にならないことが確認された。, いずれも1905年(明治38年)。調印7日後に太平洋間海底ケーブルについて契約が締結されている。, Treaty of Portsmouth, or Portsmouth Peace Treaty, セオドア・ルーズベルトは「(日本への)同情が欠如している」として駐韓米公使の選任を変更したこともあるほどで、日本海海戦の際も一日中そのニュースだけを追い、ルーズベルト自身「私は興奮して自分の身はまったく日本人と化して、公務を処理することもできず終日海戦の話ばかりしていた」と、その日のことを振り返っている, 小村の表敬訪問の際、「大統領はなぜ日本に対して好意をお持ちですか」という質問に対し、ルーズベルトは英訳の『, ポーツマス講和会議に関するフォーラムの開催やホテルの保存運動に尽力したニューハンプシャー日米協会会長のチャールズ・ドレアックに対し、日本政府は. めとするパターンが多く、日露戦争もその例外ではない。 【スタディz】 焼き討ち事件 「戦争での死」の捉え方 靖国神社、招魂社、忠魂碑 <靖国の公式参拝がなぜ世界で問題にされるのか> 『ボストン近郊から2日かけて約1000Kmの紅葉ドライブへ。紅葉のピークにはちょっと早かったけど、途中の街へ立ち寄りながら、紅葉と絶景を楽しみました!→ポートラン...』ポーツマス(アメリカ)旅行についてsaraさんの旅行記です。 『ボストン近郊から2日かけて約1000Kmの紅葉ドライブへ。紅葉のピークにはちょっと早かったけど、途中の街へ立ち寄りながら、紅葉と絶景を楽しみました!→ポートラン...』ポーツマス(アメリカ)旅行についてsaraさんの旅行記です。 ポーツマス条約は、日露戦争の条約であったことは世界史の教科書などでよく知られていますが、この条約に調印した小村寿太郎が帰国後に国民の批判を受けたことはあまり知られていません。日露戦争は両国ともに国力をすり減らした戦争となったこと自体がそれほど知られていないのです。 アの条約なのにアメリカという場所が選ばれたという … アは ウィッテ という人物が講和の全権を任され、ポーツマスに向かいます。 アの間で結ばれた日露講和条約のことです。 講和会議がアメリカのポーツマスで行われたことからポーツマス条約とも言います。 アのウィッテ(前蔵相)とのあいだで講和会議が開かれた。 結された街として日本人に縁のある都市です。 žã‚„朝鮮半島から撤退することが決められ、日本は樺太の一部や遼東半島を手に入れます。 結されたことになります。 アメリカ合衆国の大統領である ア帝国との間で結ばれた日露戦争の講和条約。日露講和条約とも称する。 こる以前のこと、話は1894年の日清戦争まで遡ります。日清戦争に勝利した日本は、翌1895年に清国との間に下関条約を結びました。 ア帝国との間で結ばれた日露戦争の講和条約。 日露講和条約とも称する。 焼き討ち事件 「戦争での死」の捉え方 靖国神社、招魂社、忠魂碑 <靖国の公式参拝がなぜ世界で問題にされるのか> 体的には新興国家として台頭しつつあった米国による仲介を想定していまし … アにはフランスがついており、ドイツは論外。日本にはイギリスがついているので、当時の5大国では仲介できる適切な国がありませんでした。そこで、日本はアメリカに白羽の矢を立てるのです。 権、遼東半島南部の租借権、南樺太などを獲得し、大陸進出を果たした。 めとするパターンが多く、日露戦争もその例外ではない。 【スタディz】 žã‚„朝鮮半島から撤退することが決められ、日本は樺太の一部や遼東半島を手に入れます。 ポーツマス条約は、日露戦争の条約であったことは世界史の教科書などでよく知られていますが、この条約に調印した小村寿太郎が帰国後に国民の批判を受けたことはあまり知られていません。日露戦争は両国ともに国力をすり減らした戦争となったこと自体がそれほど知られていないのです。 žã®åˆ©æ¨©ã‚’奪われることを猛反対し、一方的に破棄してしまいます。 この行動は、 日本とアメリカの関係が悪化する原因 となりました。 結された街として日本人に縁のある都市です。 結されたのが「下関条約」です。この記事では、不平等条約といわれる内容や、賠償金の使い道、その後の影響などを解説していきます。 žã®åˆ©æ¨©ã‚’奪われることを猛反対し、一方的に破棄してしまいます。 この行動は、 日本とアメリカの関係が悪化する原因 となりました。 アの戦争。なぜ、そこにアメリカが介入してきたのでしょうか? アメリカにもある思惑があったようです。このポーツマス条約の斡旋を引き受ける代わりに、アメリカは日本にフィリピンの支配を認めてもらおうと考えていました。 アは賠償金請求に応じなかったのか」を見ていきたいと思います。 こる以前のこと、話は1894年の日清戦争まで遡ります。日清戦争に勝利した日本は、翌1895年に清国との間に下関条約を結びました。 体的には新興国家として台頭しつつあった米国による仲介を想定していまし … 1941å¹´12月8日の真珠湾攻撃で火蓋が切られた太平洋戦争。 この時、日米両国民のお互いに対する感情は最悪のものでした。 では、いつから日米関係はそんなに悪化してしまったのか。 ペリーが黒船で日本にやってきて、日米が出会った瞬間からずっとこんな感じだったのでしょうか。 もちろん、そんなことはありません。 日本がまさに国運を賭けて戦った日露戦争(1904年)では、アメリカは日本の味方でした。戦費の足りない日本に莫大なお金を貸してくれたし、戦争を終わらせるための和平調停を斡旋 … アから賠償金をとらなかったのでしょうか。この記事では、条約の概要や世界からの評価、小村寿太郎について、そしておすすめの関連本をご紹介していきます。 若狭和朋『日露戦争と世界史に登場した日本 : 日本人に知られては困る歴史 』2012, 『日露戦争特別展II 開戦から日本海海戦まで』「政治・外交(解説を読む)ポーツマス会議開始」, http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a164069.htm, “衆議院議員鈴木宗男君提出一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問に対する答弁書”, http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b164069.htm, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ポーツマス条約&oldid=80548366, ロシア軍の満州よりの全面撤退、満州におけるロシアの権益のうち清国の主権を侵害するもの、または, 満州のうち日本の占領した地域は改革および善政の保障を条件として一切を清国に還付すること。ただし、, 日露両国は、清国が満州の商工業発達のため、列国に共通する一般的な措置の執行にあたり、これを阻害しないことを互いに約束すること。, ロシアは、日本が戦争遂行に要した実費を払い戻すこと。払い戻しの金額、時期、方法は別途協議すること。. ¯43°3'、西経70°47'。面積は43.5 km²ã€‚2000年の人口は約2万人。 アは賠償金請求に応じなかったのか」を見ていきたいと思います。 この条約は、日本・イギリス・アメリカ・フランスの間で結ばれた 太平洋問題に関する条約 です。 権、遼東半島南部の租借権、南樺太などを獲得し、大陸進出を果たした。 結されることになりました。 ① 四カ国条約. ポーツマス条約(ポーツマスじょうやく、英: Treaty of Portsmouth, or Portsmouth Peace Treaty)は、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、日本とロシア帝国との間で結ばれた日露戦争の講和条約。日露講和条約とも称する。, 1905年(明治38年)9月4日(日本時間では9月5日15時47分)、アメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマス近郊[注釈 1]のポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア帝国全権セルゲイ・Y・ウィッテの間で調印された。, また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日 -)のことをポーツマス会議、 日露講和会議、ポーツマス講和会議などと呼ぶ。, 日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、日本海海戦戦勝後の1905年(明治38年)6月、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていたアメリカ合衆国に対し「中立の友誼的斡旋」(外交文書)を申し入れた。米国に斡旋を依頼したのは、陸奥国一関藩(岩手県)出身の日本の駐米公使高平小五郎であり、以後、和平交渉の動きが加速化した[1]。, 講和会議は1905年8月に開かれた。当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない」と主張していたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが日本としてはこれ以上の戦争の継続は不可能であると判断しており、またこの調停を成功させたい米国はロシアに働きかけることで事態の収拾をはかった。結局、ロシアは満州および朝鮮からは撤兵し日本に樺太の南部を割譲するものの、戦争賠償金には一切応じないというロシア側の最低条件で交渉は締結した。半面、日本は困難な外交的取引を通じて辛うじて勝者としての体面を勝ち取った。, この条約によって日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、軍事費として投じてきた国家予算4年分にあたる20億円を埋め合わせるための戦争賠償金を獲得することができなかった。そのため、条約締結直後には、戦時中の増税による耐乏生活を強いられてきた国民によって日比谷焼打事件などの暴動が起こった。, 1905年3月、日本軍はロシア軍を破って奉天(現在の瀋陽)を占領したものの、継戦能力はすでに限界を超え、特に長期間の専門的教育を必要とする上に、常に部隊の先頭に欠かせない尉官クラスの士官の損耗が甚大で払底しつつあり、なおかつ、武器・弾薬の調達の目途も立たなくなっていた。一方のロシアでは同年1月の血の日曜日事件などにみられる国内情勢の混乱とロシア第一革命の広がり、ロシア軍の相次ぐ敗北とそれに伴う弱体化、さらに日本の強大化に対する列強の怖れなどもあって、日露講和を求める国際世論が強まっていた[1]。, 1905年5月27日から28日にかけての日本海海戦での完全勝利は、日本にとって講和への絶好の機会となった。5月31日、小村寿太郎外務大臣は、高平小五郎駐米公使[注釈 2]にあてて訓電を発し、中立国アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に「直接かつ全然一己の発意により」日露両国間の講和を斡旋するよう求め、命を受けた高平は翌日「中立の友誼的斡旋」を大統領に申し入れた[2]。ルーズベルト大統領は日露開戦の当初から、アメリカは日本を支持するとロシアに警告し、「日本はアメリカのために戦っている」と公言しており、また全米ユダヤ人協会会長で銀行家のヤコブ・シフと鉄道王のエドワード・ヘンリー・ハリマンが先頭に立って日本の国債を買い支えるなど、アメリカは満洲、蒙古、シベリア、沿海州、朝鮮への権益介入のために日本を支援していた[3]。, 米大統領の仲介を得た高平は、小村外相に対し、ポーツマスは合衆国政府の直轄地で近郊にポーツマス海軍造船所があり、宿舎となるホテルもあって、日露両国の全権委員は互いに離れて起居できることを伝えている[1]。, パリ(ロシア案)、芝罘またはワシントンD.C.(日本の当初案)、ハーグ(米英案)を押さえての開催地決定であった[1]。ポーツマスは、ニューヨークの北方約400キロメートル地点に立地し、軍港であると同時に別荘の建ち並ぶ閑静な避暑地でもあり、警備がきわめて容易なことから公式会場に選定されたのである[4]。, また、米国内の開催には、セオドア・ルーズベルトの「日本にとって予の努力が最も利益になるというのなら、いかなる時にでもその労を執る」(外交文書)という発言に象徴される親日的な性格[注釈 3]に加え、講和の調停工作を利用し、米国をして国際社会の主役たらしめ、従来ロシアの強い影響下にあった東アジアにおいて、日・米もふくんだ勢力均衡の実現をはかるという思惑があった[1]。, 中国の門戸開放を願うアメリカとしては、日本とロシアのいずれかが圧倒的な勝利を収めて満州を独占することは避けなければならなかったのであり、このアメリカの立場と、国内の革命運動抑圧のため戦争終結を望むロシア、戦力の限界点を超えて勝利を確実にしたい日本のそれぞれの希望が一致したのである[6]。ドイツ・フランス両国からも、「ロシアの内訌がフランス革命の時のように隣国に容易ならざる影響を及ぼす虞がある」(外交文書)として講和が打診されていた。ルーズベルトの仲介はこれを踏まえたものであったが、その背景には、米国がその長期戦略において、従来「モンロー主義」と称されてきた伝統的な孤立主義からの脱却を図ろうとする思潮の変化があった[1]。, ルーズベルト大統領は、駐露アメリカ大使のジョージ・マイヤーにロシア皇帝への説得を命じたあと、1905年6月9日、日露両国に対し、講和交渉の開催を正式に提案した。この提案を受諾したのは、日本が提案のあった翌日の6月10日、ロシアが6月12日であった[2]。なお、ルーズベルトは交渉を有利に進めるために日本は樺太(サハリン)に軍を派遣して同地を占領すべきだと意見を示唆している[2][注釈 4]。, 日本の国内において、首相桂太郎が日本の全権代表として最初に打診したのは、外相小村寿太郎ではなく元老伊藤博文であった。桂政権(第1次桂内閣)は、講和条件が日本国民に受け入れがたいものになることを当初から予見し、それまで4度首相を務めた伊藤であれば国民の不満を和らげることができるのではないかと期待したのである[8]。伊藤ははじめは引き受けてもよいという姿勢を示したのに対し、彼の側近は、戦勝の栄誉は桂が担い、講和によって生じる国民の反感を伊藤が一手に引き受けるのは馬鹿げているとして猛反対し、最終的には伊藤も全権大使への就任を辞退した[8][注釈 5]。, 結局、日向国飫肥藩(宮崎県)の下級藩士出身で、第1次桂内閣(1901年-1906年)の外務大臣として日英同盟の締結に功のあった小村壽太郎が全権代表に選ばれた。小村は、身長150センチメートルに満たぬ小男で、当時50歳になる直前であった[10]。伊藤博文もまた交渉の容易でないことをよく知っており、小村に対しては「君の帰朝の時には、他人はどうあろうとも、吾輩だけは必ず出迎えにゆく」と語り、励ましている[11]。, 対するロシア全権代表セルゲイ・ウィッテ(元蔵相)は、当時56歳で身長180センチメートルを越す大男であった[10]。戦前は財政事情等から日露開戦に反対していたものの、かれの和平論は対日強硬派により退けられ、戦争中はロシア帝国の政権中枢より遠ざけられていた。ロシア国内では、全権としてウィッテが最適任であることは衆目の一致するところであったが、皇帝ニコライ2世は彼を好まなかった[11]。ウラジーミル・ラムスドルフ外相は駐仏大使のアレクサンドル・ネリードフ(英語版)を首席全権とする案が有力だったが、本人から一身上の都合により断られた[11][12]。その後、駐日公使の経験をもつデンマーク駐在大使のアレクサンドル・イズヴォリスキー(のち外相)らの名も挙がったが、結局ウィッテが首席全権に選ばれた[11][12]。イズヴォリスキーはウィッテの名を挙げてラムスドルフ外相に献策したといわれる[13]。失脚していたウィッテが首席全権に選ばれたのは、日本が伊藤博文を全権として任命することをロシア側が期待したためでもあった[13]。ウィッテは、皇帝より「一にぎりの土地も、一ルーブルの金も日本に与えてはいけない」という厳命を受けていた[10]。そのためウィッテは、ポーツマス到着以来まるで戦勝国の代表のように振る舞い、ロシアは必ずしも講和を欲しておらず、いつでも戦争をつづける準備があるという姿勢をくずさなかった[10]。次席全権のロマン・ローゼン駐米大使は開戦時の日本公使であり、彼自身は戦争回避の立場に立っていたとされ、また、西徳二郎外相とのあいだで1898年に西・ローゼン協定を結んだ経歴のある人物である[14]。, すべての戦力においてロシアより劣勢であった日本は、開戦当初より、戦争の期間を約1年に想定し、先制攻撃をおこなって戦況が優勢なうちに講和に持ち込もうとしていた[15]。開戦後、日本軍が連戦連勝をつづけてきたのはむしろ奇跡的ともいえたが、3月の奉天会戦の勝利以後は武器・弾薬の補給も途絶えた。そのため、日本軍は決してロシア軍に対し決戦を挑むことなく、ひたすら講和の機会をうかがった[注釈 6]。5月末の日本海海戦でロシアバルチック艦隊を撃滅したことは、その絶好の機会だったのである[15]。, すでに日本はこの戦争に約180万の将兵を動員し、死傷者は約20万人、戦費は約20億円に達していた。満州軍総参謀長の児玉源太郎は、1年間の戦争継続を想定した場合、さらに25万人の兵と15億円の戦費を要するとして、続行は不可能と結論づけていた[15]。とくに専門的教育に年月を要する下級将校クラスが勇敢に前線を率いて戦死した結果、既にその補充は容易でなくなっていた[11]。一方、ロシアは、海軍は失ったもののシベリア鉄道を利用して陸軍を増強することが可能であり、新たに増援部隊が加わって、日本軍を圧倒する兵力を集めつつあった[15]。, 6月30日、桂内閣は閣議において小村・高平両全権に対して与える訓令案を決定した[17]。その内容は、(1)韓国を日本の自由処分にゆだねること、(2)日露両軍の満州撤兵、(3)遼東半島租借権とハルビン・旅順間の鉄道の譲渡の3点が「甲・絶対的必要条件」、(1)軍費の賠償、(2)中立港に逃げ込んだロシア艦艇の引渡し、(3)樺太および付属諸島の割譲、(4)沿海州沿岸の漁業権獲得の4点が「乙・比較的必要条件」であり、他に「丙・付加条件」があった[17]。それは、(1)ロシア海軍力の制限、(2)ウラジオストク港の武装解除であった[18]。, 首席特命全権大使に選ばれた小村は、こうした複雑な事情をすべて知悉したうえで会議に臨んだ。小村の一行は1905年7月8日、渡米のため横浜港に向かう新橋停車場を出発したが、そのとき新橋駅には大勢の人が集まり、大歓声で万歳し、小村を盛大に見送った。小村は桂首相に対し「新橋駅頭の人気は、帰るときはまるで反対になっているでしょう」とつぶやくように告げたと伝わっている[11][15]。井上馨はこのとき、小村に対し涙を流して「君は実に気の毒な境遇にたった。いままでの名誉も今度で台なしになるかもしれない」と語ったといわれる[19]。小村一行は、シアトルには7月20日に到着し、一週間後ワシントンでルーズベルト大統領に表敬訪問をおこない、仲介を引き受けてくれたことに謝意を表明した[11][注釈 7]。, 児玉源太郎は、日本が講和条件として掲げた対露要求12条のなかに賠償金の一条があることを知り、「桂の馬鹿が償金をとる気になっている」と語ったという[21]。日露開戦前に小村外相に「七博士意見書」を提出した七博士の代表格として知られる戸水寛人は、講和の最低条件として「償金30億円、樺太・カムチャッカ半島・沿海州全部の割譲」を主張し、新聞もまた戸水博士の主張を挙げるなどして国民の期待感を煽り、国民もまた戦勝気分に浮かれていた[21]。黒龍会が1905年6月に刊行した『和局私案』では、韓国を完全に勢力圏におき、東三省(満洲)からのロシアの駆逐、ポシェト湾の割譲、樺太回復、カムチャッカ半島の領有が必要だと論じられた[22]。陸羯南の『日本』でも、賠償金30億円は「諸氏の一致せる最小限度の条件」のひとつに位置づけられていた[22]。日清戦争後の下関条約では、台湾の割譲のほか賠償金も得たため、日本国民の多くは大国ロシアならばそれに見合った賠償金を支払うことができると信じ、巷間では「30億円」「50億円」などの数字が一人歩きしていた[21]。